兄のただいまという声で我に返った。

 私は帰ってきた。

 きっと兄は私の部屋に来るのだろう。ヒッチコック監督のサイコを持ってくるのだろう。


 靴を脱ぐ音。

 廊下を歩く音。

 階段を上がる音。

 鞄が壁に当たる音。

 扉の前には兄の気配。

 そしてドアノブが回る。

 扉がゆっくりと開く。

 そこにいたのは兄。

 懐かしい顔の兄。

 優しい顔の兄。

 兄は言った。


千草ちぐさ、ごめん。全部借りられてたよ、サイコ」


 私は知らず、笑みがこぼれた。

 目の前には久し振りに会う兄。

 私の中にあった後悔というおりが、すっかり洗い流されたように心が澄んでいったのを今感じている。

 私はもう兄を拒絶きょぜつしない。

 何故なら拒絶の先にある悔恨かいこん寂寥せきりょうをすでに知っていて、それに囚われた人生の長い悲愴ひそうを知っていて、そんなのはもうまっぴらごめんなのだ。


 そしてただ純粋に兄と映画の話をして笑っていたいのだ。


 すでにあやまちを犯していながら図々ずうずうしい考えだというのは分かっているが、この巡ってきた機会を無駄にはせず、次こそは過ちを犯さずにしっかりと人生を送っていきたいと思っている。

 その為にも、まずは兄に謝らなければならない。

 兄はなんの事か分からないだろう。

 私だけが知っている、もう一つの未来での出来事に対しての謝罪なんて、私の為の行為であり、エゴに他ならない。

 私は少し落ち着いて考える事にした。

 過ちを正す為に戻ってきたのに、その過ちをエゴで上塗りしてしまうのは間違っているのではないだろうか? 結局のところ私は自分の事しか考えていないのではないだろうか? 以前はどうだった?


 そうだ。


 私は以前から自分の事ばかりを考えて生きてきた。

 兄の状況について考えた事が、兄の近況について話を聞いた事があっただろうか?

 兄はいつも私に話をしてくれて、私の話を聞いてくれていたが、二人の会話には映画しかなく、そこに生活といったファクターは含まれていなかった。

 兄は学校生活をどの様にこなしていた?

 私が不登校だから気を使って学校の話をしなかったのか?

 目の前に立つ兄を見ているとどこか違和感を感じて、私は兄の全身をくまなく頭のてっぺんから足の先まで、舐めるようにじっくりと観察し、そして見つけた。

 着過ぎてゴムが伸びたTシャツの首の部分から覗く、赤っぽい、まだ出来てあまり時間が経っていないであろうあざ

 なにも言わず身体を見られた兄は不思議そうにこちらを見ている。

 私はそんな兄に言った。


「お兄ちゃん、いじめられてるの?」


 私は兄の話を聞きたいと思い、兄に一歩踏み込もうと思い、結果自分と兄は同じだと、兄もこちら側の人間だったのだと分かって私は嬉しくなっていてきっとそれが表情にも表れているのだろう。

 そんな私の顔を見て、兄は天敵を見付けた瞬間の小動物の様に自らを守るためにぐっと力を入れて、じっとそこに留まっている。


 何故。

 どうして。


 そんな必要はない。仲間なのだから。

 私は分かるよ。


 しかし兄は何も言わずに部屋を飛び出した。


 階段を転げ落ちるように降りていったかと思うと本当に転げ落ちている音がするが、兄は止まらずに廊下を進み、そのまま玄関を開けて外に出た様だ。

 扉の閉まる音が空気を伝って私の部屋に響いて、壁を、床を、天井を少しだけ揺らす。

 なんの物音も立てずに、私の部屋の開け放った扉から彼女が現れた。

 彼女はあわれむような眼差しで私を見ている。

 私は立ち上がり、そんな彼女の脇をすり抜けて兄が転げ落ちていった階段を降りて階段の下に滴っている血痕けっこんに指をわす。


 こんなつもりじゃなかったのに。


 私はまた後悔と抑鬱よくうつを深めて、以前よりも深く重く強い自責の念を抱いた。

 背後から私とは対照的な軽い音を立てて彼女が階段を降りてきている。

 振り返り改めて彼女を眺める。

 長い上の睫毛が重力に逆らうように綺麗な放物線を天に向けて、二重瞼でぱっちり開いている目には強い目力があり、その視線から私は目を逸らす事が出来ずにいた。


 そして私は妙な感覚を覚えた。


 以前も同じ事があったような気がする。

 今更ではあるが彼女は一体何者なんだろうかという疑問が浮かんできた。


「あなたは何者なの?」


 彼女はシニカルな表情を浮かべたまま、質問には答えずに、逆に私に問うた。

「今の生活に満足している?」

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