tres


 何分、いや何時間経っただろうか。

 俺は相変わらず砂の中に埋もれていて、状況は何も変わっていない。

 いて言うなら、聞こえる波の音が大きくなってきた事と、時間が経つごとに井上との記憶がどんどん思い出せなくなっている事が変わったと言えようか。


 今や俺に残された井上との記憶は、別れた日の事と、別れるに至った原因の日のみとなっている。


 こんな事が現実にあり得るのかは分からない――実際に今起こっている事すら、現実なのか判断出来ない――が、記憶がどんどん抜き取られている様な違和感を、記憶の消失が起こるたびに抱いた。

 そして、記憶を抜き取られる様な違和感を抱く度に右後方の誰かの存在感はどんどん希薄きはくになっていく。

 それなのに何故か濃厚のうこうな気配だけは怪しくただよわせ続けた。

 俺はこの不気味な誰かの正体が人智じんちえた存在ではないかと疑い始めた。


 悪魔。そんな言葉が頭を過る。


 記憶をもてあそび――どうやっているのかは分からないが――シニカルな表情でもしているのだろうかと思考すると、俺の中に怒りが蔓延まんえんし、凶暴性といったたぐい片鱗へんりんが顔を出そうと、理性の扉に手をかけているのが分かって、なんとかそれを抑え込もうと努力をしてみるのだが、理性の扉は西部劇に出てくる汚く無法者が集う酒場の扉に似ていて容易たやすく開いてしまう。


 無法者は解き放たれた。


 蔓延していた怒りを媒体にして、攻撃性をたずさえた無法者は行き場を探して俺の全身を駆け巡る。

 そして脳に行き着く。

 無法者は脳を支配して身体へと命令を下すが、地面に埋められてまとわりつく砂の重圧により動けない事を悟ると、唯一砂に触れていない首より上の部位でも、とりわけ口に集中して命令は下された。


 そして実行されようとしたのだが、外部からの影響で無理矢理にそれを中止させられた。

 水だと理解するまでに数秒をようした。

 先程までも水の音は聞こえていたが、あれはやはり俺に迫ってきていて、俺が怒りに囚われて外部から入る情報の収集をおろそかにしている内に、こんなに近くまできていた様だ。

 口の中に水と砂が入る。

 喋る事がままならなくなって、怒りを吐き出すより、水を吐き出す事に神経を集中させる。

 海水の、塩分濃度が高く塩辛い、その味が舌の上を通り抜けて喉の奥を滑り落ちていく。その感覚と時を同じくして、砂がじゃりじゃりとした嫌な感触を口の中に残した。

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