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 俺は昨日井上を振った。

 井上とは三年近く付き合っていたのだが、彼女の束縛そくばくに耐えられなくなったので、一方的に別れをげたのだった。


 彼女の愛は重たすぎた。


 それこそ今の状況の様に、まとわりつく砂に埋もれた様に、心の身動きを奪われた生活だった。

 俺は昨日から自由を得たはずだったのに、結局身動き出来ないでいるこの状況を思うと、この世に自由なんて存在しないのではないかと小言こごとの一つでも言いたくなった。

 しかし、ここで余計な事を言うと、尚更井上の思うつぼなのではないかと思考し、踏み止まる。


 右後方で井上が、何かをしていて、何かを感じていて、何を企んでいるのかは分からないが、俺は井上にくっするつもりはない。

 望んだ訳ではないが、井上と決着をつけるいい機会なのかもしれない。

 それにしても井上はどうして何も言わないのだろうか。俺は出来る限りではあるが右後方にいる井上へと視線を向ける。

 確かに井上はそこにいる。

 テバのスポーツサンダルと赤い靴下は未だそこにあって、しかしそれは存在感だけがそこに介在かいざいしていて、気配というものに関しては恐ろしい程に希薄きはくで、目で存在を確認しているのに俺はそれを疑ってしまう。


 沈黙が続くと一層疑いは濃厚のうこうさを増していき、増した疑いは不安をまねく。俺は不安を更につのらせていく。右後方にいる人間がもし井上でなかったとしたら。

 そんなはずはない。

 俺は先程井上の声を聞いていて……


 果たして、あの声は本当に井上だっただろうか?

 先程聞いたはずの、あの声が、あの声とはどんな声だっただろうか。

 俺はさっき聞いたはずの声を思い出せない。

 そんなはずはない。昨日だって井上と会ったのだから声くらいは思い出せるはずだ。

 昨日の事を思い返してみればいいんだ。そうだ、そうすれば。脳の中から井上に関連する記憶を検索する。

 しかし何故だろうか、どの記憶にも不自然さが残る。


 井上を俺は本当に知っているのだろうか?。


 雲行きが怪しくなってきた俺の記憶。尚更思考を止める訳にはいかない。

 俺は再び脳を動かす。


 井上という人物との記憶が存在しているのは事実なのだが、それは知識として持っている情報であるかの様に文章として記憶に残っているだけで、映像としての記憶が皆無かいむだと気付いた。


 本当に俺は井上という人物と時を過ごしていたのだろうか。


 脳裏のうりよぎったのは記憶の操作。

 今現在記憶の操作なんていうのは漫画や映画など空想の産物さんぶつでしかないと俺は思っていたが、俺の脳にしっかりと植え付けられている、この記憶――映像としてではく文章として――はどこからやってきたものなのかと思考した時、記憶の操作という可能性は一概いちがいに否定できるものではないと思えた。

 そう分かっていても、可能性は認めていても、記憶の操作なんてSFめいた事を受け入れられない俺がいるのもまた事実。


 安易に分かりやすい答えを求めすぎるのは間違っているのかもしれないと新たに思考し、俺は井上という人物との記憶の糸を手繰たぐってみて、そこに何かヒントが隠されていないか確認する事にした。

 そうでもしないと俺は、いつからか恐怖へと変貌へんぼうを遂げた、元は不安であったそれに身体を、精神を、むしばまれつつあり、そろそろ正常な判断すら出来なくなってしまいそうで、それにまた恐怖を覚えて、俺はおかしくなっていくのを身をもって感じた。


 思考を止めるな。


 井上という人物との間にある記憶の、不自然な、違和感のある点を見付け出す事に集中する。

 相変わらず右後方にいる誰かは口を開かずに、だんまりを決め込んでいるので思考する時間はまだありそうだ。

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