три

「まだはーちゃん来んの? このペースやと、お酒全部飲んでまうよ」

 千秋ちあきはそう言うと、三本目の缶ビールの残っていた分を一気にあおった。

 それを見てたかぶり出したみんなが、いいぞいいぞとはやし立てる。みんな程度の差はあれど、酔っているのが手に取る様に分かる。

 俺もみんなと同様に慣れない酒を勢いよく飲んだせいで、アルコールが血中けっちゅうを巡って大脳新皮質しんひしつの活動が低下し、逆に大脳辺縁系へんえんけいの活動が活発になっていく。

 見て分かる様に同窓会――とは言っても、もはやただの宴会と言えよう――はなかなかの盛り上がりを見せていたが、本日の主役でもある遥香はるかは指定した開始時刻を一時間過ぎてもまだ姿を見せていなかった。


「誰かはーちゃんに電話してみいよ。なんやったらうちがかけるわ」

 千秋は何故か立ち上がってスマートフォンを耳に当てるが、酔っぱらっていて少しバランスを崩すと隣に座る翔太しょうたもたれれ掛かる。

 翔太は小学生の頃千秋の事が好きだったなと思い出して俺はにやにやとその様子を眺めた。翔太はそんな俺の様子に気付いたのか千秋を元の位置に押し戻そうとする。

「そんな触って、翔太うちの事好きなんちゃう? ちょっとくらいやったら別に触ってもええけど?」

 そう言ってしなを作る千秋に男性陣が目を向け、そんな千秋に見蕩みとれる男性陣を涼香が呆れ顔で順に見ていく中、俺は違う所を見ていた。


 見ていたのは玄関の横に備えられた窓。

 俺は何故かそこに目が釘付けになっていた。

 そろそろ遥香がやってくるのではないかという期待なのか、遥香が来ない事を知っていてそれでも来て欲しいと願うはかなき思いなのか、俺は酔っていて自分の考えにすら答えを出せない脳で必死に考えた。答えを出すよりも早く、涼香がどうしたのかと俺に聞いてきた事で、俺は視界と意識を冷酷なほど冷たい風が吹きすさぶであろう外の世界から、みんなのいる暖かい室内へと戻した。

「いや、なんでもない。遥香が早く来ないかなと思って」

「あかん、ぷるぷる言うけど出えへんわ」千秋は科を作るのを止めて席に着いたと思ったら、出し抜けに言った。

「ムラサキカガミの餌食になったんちゃう?」


 その時、ふっと何かの影の様なものがまぎれ込んで来たのではないかと思う様な冷酷な風が部屋の中を横切った。みんながその風を感じたのかどうかは分からないが、各々が何かに恐怖している様なそんな気がした。

 沈黙の音がこの部屋の中で何より騒々そうぞうしく響いた。

「うち、なんか余計な事言うたかな……って言うか、みんなムラサキカガミとか信じとんの?」

 千秋がそう言った直後に玄関の外で何かがぶつかりあう、がしゅかしやんという音が聞こえてみんなが同時に委縮いしゅくした。

「なによ、もう。びっくりするやんか。でも遥香来たんとちゃう?」

 無理に陽気な雰囲気を作りだして千秋は玄関の方に向かった。

 誰かが行くなと言った。

 暗く抑揚よくようのない声。

 

 声の主は陽一郎だった。


 千秋は玄関前で足を止めると陽一郎を見て口を開いたが、結局その口からは何の言葉もはっせられる事はなかった。

 陽一郎は言った。

「ムラサキカガミは実話だよ」

 どこでもない一点に目を向けて、そこに何かの影を見出みいだそうとしているかの様な雰囲気で陽一郎は言った。

 途端に俺もみんなも恐怖をおおい隠すかの如く、せきを切った様に喋り出した。


「なに言うてんの陽ちゃん?」「それはさすがに悪趣味だろ」「はーちゃん今日誕生日なんよ?」「陽一郎、酔ってんじゃないの?」「水飲め水」「言い出したうちも悪かったけど、さすがに笑えんよ、そんなん」「いや、本当なんだって」「まだ言うか?」「もうやめなって陽一郎」「向きになるなって」「なってねえよ」「どないしたん陽ちゃん? なんかおかしない?」「おかしくねえよ」「もういいじゃん。やめよう、こんな話」「いや、そんだけ向きになるんだし理由を言えよ。場合によっちゃさすがにキレるけど」「ちょっと、喧嘩しないでよ」「いやふざけた事言ってる陽一郎が悪いんだよ」「もうやめようや。せっかくみんな集まっとおのに、こんなん嫌やわ」「もとはと言えば千秋が悪いんだよ。そんな事言うから」「翔太、さすがにそれはひどくない?」「千秋だって酔ってるんだし、軽い冗談くらいの気持ちだったんだろ?」「そうや。今思ったら、さすがに悪かったかなとは思うけど、そんな言わんでもよくない?」「そっちこそ、逆切れしてくんなよ」「別にうちキレてへんよ」「もういいじゃない。本当、もうやめよう」「いや、まてよ。聞けよ」

 その綯い交ぜになって誰が喋ったかも分からない言葉たちは、俺の頭の中に侵攻しんこうしてくると加速度的に酔いを進行させていく。


 ムラサキカガミからくる恐怖で足が地に付いていない様な状態のまま、実際にしっかりと地に足を付いていられるか分からない程まで酔っていていさかいを起こす俺たちは、この世界とは別の世界に存在する物語の中でもてあそばれているのではないだろうかと思える程に、都合よくムラサキカガミの呪縛じゅばくとらわれていく様に思えた。

 この話は悪い方へ悪い方へ永遠に続いていくのだと、諦観ていかんにも似た気持ちが俺の胸の奥にすとんと落ち込んだ。

 そしてそれが正しかった事を証明する様に誰か――何故、誰の発言か分からないのかと言う事が分からない――が言った。


「ムラサキカガミのせいで実際に死んでるんだよ、俺たちは一度」


 言っている意味は分からないが俺たちは再度混沌とした会話を繰り返す。

「はあ? お前馬鹿か? 俺たち生きてるじゃん」「うちやってもう二十歳なっとおけどなんともないよ?」「今日が起点なんだよ」「意味分かんないんだけど、頭おかしくなったんじゃないの陽一郎」「俺はしっかりしてるよ。それよりお前たちがなんで覚えてないのかが俺には分かんねえよ」「ちょっと待て。まじで意味分かんねえ」「陽ちゃん、冗談じゃないん?」「さすがにこれは面白くもなんともないぞ?」「冗談じゃないんだよ。俺はお前たちが死ぬところを」「おい、死ぬとかやめろって」「いや死んだかどうか俺も知らない奴が一人だけいる」「なんだそれ、どういう意味だよ」「お前ら誕生日いつだ?」「うちは五月」「俺は三月」「私は一月だけど」「俺は十月」「遥香は今日だろ? 俺は九月だ」「それがどうしたんだよ?」「今日が起点って言っただろ?」「今日? 十一月十一日だな」「そう、十一月十一日」

 日付を確認する様に言ったのは陽一郎だった。みんなが好き放題喋っていたのが嘘の様に、今は陽一郎だけが神からの加護かあるいはムラサキカガミの呪縛かの力により発言権を得たとも思える程に、ただ一人だけで冷酷な現実とやらをささやいて優しく空気を震わせて、じっとりと言葉の意味をこの場に伝播でんぱさせた。


「今日、遥香が死ぬ」


 俺はその時再び影の気配を感じた。その影は玄関の横に備えられた窓ではなく、室内にあるもの、冷蔵庫の前やテーブルの横、姿見、御手洗いの扉の前など至る所から気配をわざとらしく放出している。

 その影の気配というものは千秋が言った「ムラサキカガミの餌食になったんちゃう?」の後に感じた冷酷な風が運んできたものなのかもしれない。

 その様な何かが、俺たち――陽一郎は何かを知っている様だが――の知らない未知のものが、ムラサキカガミが、きっと影響しているのだろうと想像した。

 そしてその影の気配は俺だけではなく、涼香も、千秋も、翔太も、そして陽一郎も気付いているのだろうと、そんな気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る