четыре

「そんな縁起でもない事言わないでよ」

 涼香りょうかが泣き出しそうになりながら、声を引きらせ言った。


 とごんとごんとごん。


 薄い金属で出来た玄関の扉を、誰かが三度ノックした。

 俺は影の気配など忘れて玄関を見る。

 しかし何の気配も感じない。よく考えてみれば今まで誰かの気配なんてものを気にした事なんてなかったので、先程から感じている影の気配というもの自体、感じているつもりになっているだけで実際は何もないのかもしれない。

 思考が飛躍していくのは酔っぱらっているからなのだろうか、それとも。


 とごんとごんとごん。


 再度響くノックの音。

 俺だけじゃなくてここにいるみんなが玄関を見ている。

「これ、出たらあかんの? はーちゃんじゃないん?」千秋ちあきは恐る恐る、玄関の外に声をかける。

「はーちゃん? はーちゃんやんな?」

 玄関の外にいる誰かは千秋の質問には答えるつもりがないのか沈黙をつらぬいている。

 時計の針の音が落ち着けと言っている様に、俺の心臓の鼓動より一秒また一秒とゆっくりではあるが一定のリズムをきざんでいく。

 玄関の先にいるのは一体何者なのか。

 時間の経過が遅くなっていく。一秒が十分にも一時間にも思えるほどに感覚は研ぎ澄まされて、俺の身体は今周りにある情報と言う情報を全て取り入れる事で、危険を回避する術を事前に見付けようと躍起やっきになっている。

 それは俺だけじゃなくてみんなも同じ様で、恐怖や不安、焦り、それぞれが混合された感情を表情に貼り付けている。


「みんなさ」そんな場の中で、陽一郎が出し抜けに言った。

「人が死ぬところって見たことあるか?」

 陽一郎は少し目を見開いた様にして、ここではない場所を見ている様にどこか一点をひたと見つめている。

 陽一郎が本当に陽一郎なのか、俺は分からなくなる。

 前にいる胡乱うろんな人物の存在が、陽一郎というからかいして俺の中に流入りゅうにゅうしようとしてくる様な錯覚を見ながらも、これは陽一郎自身で間違いないと盲目的に見ているもう一人の自分を知覚する。

 先程陽一郎が言っていた、俺たちが一度死んでいるという話を思い出しながら、俺の中に存在する胡乱な人物の錯覚を見る自分と陽一郎を盲目的に見る自分、その二人の自分の存在からこれは夢なのではないかと俺は思う。

 それと同時に、並行世界での俺だという考えが頭に浮かぶ。

 俺の頭の中にある思考のキャパシティの限界値を表す針は、もう完全に振り切れてしまっている。

 ただ目の前の出来事の流れに身を任す事で、沸騰した脳を落ちつける事につとめた。


 そんな中、陽一郎へは口々に批判や非難、疑問、恐怖や不安の声が上がる。

「お前、おかしくなったのか?」「ふざけた事言わないでよ」「なんなんこれ?」「人の死が今の状況とどう関係があるんだよ」「さすがになんかおかしいよ、これ」「嫌や、うち怖い」「もう帰ろうよ、私だってこんなの嫌」「っていうかさ、外誰かいるんだろ? やばい奴なんじゃないの? 陽一郎、お前何か知ってんだろ。答えろよ」「陽ちゃん、どうしたらええの?」


 その時だった。

「今の生活に満足している?」

 この場にいるはずのない少女の様な声が聞こえた。

 俺は周囲を見渡す。

 陽一郎がそんな俺の様子に気付くと、哀れむ様な様な表情をして言った。


「やっぱり、次は純也じゅんやか」


 俺はその言葉の意味が分からず、答えを求める様に陽一郎の方を見た。しかし俺の目に映ったのは陽一郎ではなかった。

 俺が見たのは陽一郎の後ろにある、姿見に映る女。

 彼女は長い上の睫毛が重力に逆らうように綺麗な放物線を天に向けて、二重瞼でぱっちり開いている目には強い目力があり、その鏡越しの視線から俺は目を逸らす事が出来なかった。

 姿見の映す場所はキッチンの方向で、そこに立っているのであろう彼女を直接見る勇気が出ない俺は、鏡を指差して言った。


「姿見。鏡」


 口の中が干上がりからからに乾いていたので、俺はうまく言葉を継ぐ事が出来なかったが、なんとか下顎に乗った舌と喉の粘膜を引き剥がして音をひねり出す。

 自分ではしっかりと言葉を音にしたつもりでいたのだが、実際にはそれ程音は出ていなかった様で、千秋は白い肌を更に白くした顔をこちらに向けて言った。


「ムラサキ? カガミ?」


 俺までおかしくなったとでも思ったのか、千秋は俺から目をそむけて床に透明のしずくをいくつもいくつも垂らして床を濡らした。

 姿見とムラサキは確かにいんを踏んでいるかもしれないが聞き間違える事なんてあるだろうかと思っていたのだが、周りを見回すと陽一郎以外は皆一様みないちようにこちらを怪訝けげんな目で見ていた。

 どうやら俺たちは、ムラサキカガミの呪縛に囚われてしまっているのではないかと思った。

 集団催眠にでもかかっている様に、この恐怖の中で誰かを敵に見立てて、都合よく解釈をする事で、今目の前に提示されている恐怖から抜け出そうと躍起になっているのだろう。

 それは先程までの俺にも言えた事であると気付いてしまって、俺の中の恐怖に対する感情や、ムラサキカガミの長きにわたる死の呪い、鏡に映る彼女への興味、全てをひっくるめた上での漠然とした不安感は俺の人間としての基盤をごっそりと削り取っていく。


 人が大きな不安に苛まれ心の安定が保てなくなった時の回避方法が二つある事を知っているだろうか?

 一つは自らの命を断つ事。

 そして、もう一つは……

 俺はムラサキカガミの呪縛に囚われたみんなを開放させたかっただけなんだ。

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