four

 物心ついた時には両親は離婚しており、母はいつも仕事にいそしんでいて遊んでもらえず寂しい思いをした。

 小学生になるとその悲しみは不満に変わり、中学生になるとその不満は嫌悪に変わり、高校生になるとその嫌悪は軽蔑けいべつに変わった。

 その頃には母が僕に貧しい思いをさせない為に一生懸命仕事に勤しみ、自分の心身を削っていた事に気付いていたのに、思春期のせいか今更それを認めるのも恥ずかしく、僕はそのまま母を軽蔑し続けた。


 そして、その日が訪れたのだ。

 いつものように母が出勤前に作ってくれた朝食を二人で囲むこともせず、いってきますという母の声を自分の部屋で聞いてからリビングに降りた。

 母は僕の分の朝食が乗ったお皿にラップをしてテーブルの上に置いていた。メニューは目玉焼きにウインナー、少しのポテトサラダ、レタスとトマトのシンプルなサラダに食パンという簡素なものだった。

 それには手を付けず僕はリビングのソファにどっかと大きな音を立てて座ると、ローテーブルの上のリモコンを手に取りテレビの電源を入れた。

 見るともなくテレビを見ながら、今日は学校をさぼることを決めて、前日眠りにつくのが遅かったので、そのままうとうととしていた。


 何分、何時間経ったのか分からないが、電話のコール音で目が覚めた。

 面倒なので取らないでいたが、コール音が思いのほか長いので、気になって電話に目を向けた。

 携帯電話が十分に普及していた為に、最近では滅多に光る事がない、留守番電話のボタン。それがぱかぱかと点滅を繰り返しているのが見えた。

 コール音はまだ鳴っている。

 なにか嫌な予感がして、普段なら絶対に出ないであろう電話に出た。


 電話は警察からだった。母は家からあまり遠くない最寄駅付近の幹線道路の横断歩道を渡っているところで、車に轢かれたらしかった。

 即死だったらしい。

 血溜まりのイメージが頭をよぎる。

 鮮血の赤が頭から離れない。

 警察に車の運転手も搬送先の病院で死亡したと告げられた。

 僕は怒りの矛先をどこに向ければいいのか。

 僕は自分の気持ちにふたをしていたが、母を愛していたことをこの時しっかりと確信した。


 しかし、もう遅かった。


 母が作ってくれた朝食はまだテーブルの上に載っていて、僕はそれから目を離すことが出来ずにいた。

 気付くと家には親戚達が集まってなにやらいっていたが、僕は彼らの会話など耳に入らず、ただテーブルの上の朝食をじっと見ていた。

 自分から距離を置いておきながら、わがままだと分かっているが、僕は母からの愛を、母と過ごす時間を、母との会話を、もっと、もっと、欲していたのだ。


 気付いた時には僕は親戚の家の近くにある安アパートで一人暮らしをすることになった。

 親戚は僕の事をかわいそうだと思ってはいたようだが、自分たちの生活に他人が入り込むのを良しとはしなかったのだろう。

 僕としても他人に干渉されずに済むので気にはしなかったが。

 なんにしろ僕は母が残してくれたお金で暮らすことになった。

 この頃からだろう、僕はお金に母の影を見出すようになった。

 母が僕に残してくれたものがお金しかなかったからだろう。


 その結果僕は高校を中退し、目につくものは片端から面接を受け、すぐに社会に出た。

 お金を自分の手で稼ぐようになると、やはり母の影だけでは物足りず、次はただただ母からの愛を求めた。しかし母からの愛を求めようとも母はいないので、付き合う女性たちにその愛を求めたが結果は明白だった。

 当然そこにある愛は別物であり、僕は短期間で何度も女性たちと付き合い、そして別れる事を繰り返すことになった。

 そのうち一人の女性が別れ際に「私にお母さんの影を求めるのはやめて」といった。


 僕は母に否定されたような気がした。


 その言葉を聞いて、愛を求める事は諦めようと思った。

 もう僕の求めるものはこの世界では手に入らないのだと。

 僕は一人静かに泣いた。

 母の死から八年が経って、やっと母の死を理解した気がした。


 そうして味気ないわりに平坦な、モノクロームの世界が始まった。

 だが諦めたつもりでも、無意識では母の影を追う事を止められないのだろう。

 僕は残業を繰り返し、お金を只管ひたすら貯め続けている。

 当然今の生活に満足はしていないというのが僕の見解だ。

 実際今の生活に満足だという人間が日本に何人いるというのだろうか?

 ブランド物の服が欲しい。最新モデルの家電が欲しい。スポーツカーが欲しい。お金が欲しい。


 愛が欲しい。


 結局そんな人間たちばかりなのではないか?

 そんな現代において「今の生活に満足している?」と問うてくる彼女には何の意図があるのだろうか?

 今ここで考えても仕方がない。今夜彼女に会えばその答えが分かるはずだ。

 僕はベッドを出た。

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