seven

 彼女の存在は今こうして目の前にしてみてもやはりどこか希薄きはくで、そんな不思議な要素を持っている彼女に、少し、いや、多大ただいに興味が湧いてきたというのも一因いちいんである。


 それでは彼女に「今の生活に満足している?」という質問の意図を問おう。と思ったのだが、もしかするとこの思考を彼女はすでに読み取っているのかもという可能性が浮かんだ。

 僕はわざわざ彼女に今思った事を口で告げる必要なんて無いのかもしれない。

 何故なら先程彼女は、僕が心の中で思っていた考えに、僕が口に出していないにも関わらず、コメントをしてきた。

 そんな事が出来る人間がいるのかどうかは分からないが、絶対にいないと言い切れるだけの証拠なんてなにもない。


 僕は彼女の存在をどう解釈するべきなのだろう。

 考え込んでいて下に向けていた視線を、上に向けて彼女の顔色をうかがおうとした時、彼女がシニカルな表情を見せて僕はぞっとした。

 やはり彼女は僕の思考を読み取っているのではないか。と思うと同時に今朝見たサイトの話を思い出した。

 オカルトなんて僕は信じていない。

 しかし、それを目の当たりにした時に信じないでいられる程、自分自身に強い自信がある訳ではない。


 僕は揺らいだ。心が。


 彼女はそれを感じ取っているのか、シニカルな表情を顔にへばりつけたまま、こちらから目を離さないでいる。

 そして僕もまた、その長い上の睫毛が重力に逆らうように綺麗な放物線を天に向けて、二重瞼でぱっちり開いて強い目力を持つ彼女の目から視線を逸らす事が出来ずにいた。

 そんな僕に呆れたのかどうか、彼女と違い僕は思考が読み取れる訳がないので分からないが、彼女は口を開いた。

「その質問も仕様もない事。一応、通過儀礼つうかぎれいみたいなものだから聞いておくわね」有無を言わさぬように、そして、わざと不快感を与えるような、ねちっこいまとわりつく声色こわいろを作り言う。

「今の生活に満足している?」


 いってきますという母の声を聞いて、僕は部屋を飛び出した。

 今ならまだ間に合う。

 僕は階段を降りて、廊下を進み、玄関を開けた。

 母が見えたが、道の角で曲がってすぐにその姿は見えなくなった。

 靴を履く事すらせずに僕は玄関から外へと飛び出した。


 刹那せつな、激しい痛みに襲われ視界が真っ白になったのを認知し始めた途端、目の前に突如とつじょ壁が現れて僕はそこにぶつかった。

 状況がよく分からない。


 いや、今理解した。


 これは壁じゃない。地面だ。

 そして僕の視界の先には、その地面をいずる鮮血が見える。

 鮮血は緩慢かんまんな動きで必死に地面の上を進んでいたのだが、何かがその進路を妨害するかの如く立ちふさがる。

 それは誰かの足で、誰かの靴で、誰かのニューバランスの一五〇〇で、僕はその人物を知っている。

 なんとなく予想はしたが、やはりその通りで、彼女はシニカルな表情を浮かべてこちらを見ている。


 僕は笑った。


 当然、皮肉を込めて。

「こんなのひどくないですか?」

 彼女はそんな僕に負けず劣らず皮肉を込めて言う。

「今の生活に満足している?」

 僕は笑った。

 次は皮肉とかそういったものは抜きで、本気でおかしいと思い笑った。

 今この状況で誰が満足していると言えるだろう。

 なかなかブラックジョークが過ぎるな。と僕は遠くなる意識の中で思った。

 そして笑ったつもりでいたが、実際は声になっていなかったその笑いは完全に地面に溶け込んで、僕自身も地面の冷たさが気にならなくなる程に体温が下がり、身体の感覚が少しずつ空中に蒸発していくのを感じた。


 僕は死ぬのか。


 自分の境遇を理解した時、やはり母を救えなかった惨めな自分に落胆らくたんし、後悔と抑鬱よくうつを深めて、以前よりも深く重く強い自責じせきの念を抱いた。

 結局人生をやり直したところで何も変わらないのかも知れない。

 背負うべき自らの罪というものは一生背負い続けて生きていくのが、人間なのだろう。その罪を背負えないものは、その重さに負けて潰されて死んでいく。

 それが世の流れというものか。

 彼女は不敵な笑みを浮かべて死にいく僕の姿を眺めている。

 僕はそんな彼女の姿を見て、もう一度やり直せるなら。と思った。

 すると彼女は言った。

「それじゃあ、こちらにいらっしゃい」

 僕の耳に彼女の声がひずんで響く。


 いってきますという母の声を自分の部屋で聞いてからリビングに降りた。彼女が見ている。母は僕の分の朝食が乗ったお皿にラップをしてテーブルの上に置いていた。彼女が見ている。メニューは目玉焼きにウインナー、少しのポテトサラダ、レタスとトマトのシンプルなサラダに食パンという簡素なものだった。彼女が見ている。


 それには手を付けず僕は彼女を見る。


 一体彼女は何者なのだろう? いや、僕は彼女の事を知っているような、そんな気がする。

 彼女は誰だ。

 思い出せ。

 思い出せない。

 そう自問している間にも、彼女はシニカルな表情を浮かべて口を動かしている。

 別に読唇術どくしんじゅつを心得ている訳ではないが、何と言っているのかなぜだか分かる気がする。

 きっと彼女はこう言っているはずだ。

「今の生活に満足している?」

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