six
鼓動が早くなる。
昨日は突然現れたように感じたが、やはり気付いてなかっただけで、彼女は普通に扉から入ってきたのだろう。その影は僕がいるオフィスの方に近づいてきた。
しかし、その人物は彼女ではなかった。
「おお。今日もまた残っとんのかい?」僕の返事を聞くよりも早く彼は言う。
「相変わらず家にも帰らず、残業代をせしめとる訳か」
現れたのは警備員の
「そんな言い方止してくださいよ」
そう答えると、内藤さんは嬉しそうに、歯が見えるくらい、にっとした表情で肩を上下に揺らしながらひっひっひと下品に笑った。この人は本当に楽しそうに笑うので僕は嫌いじゃない。
いつのことだったか、僕が残業代を多くもらうことに味を占めて、残業を繰り返していた時に声をかけられた。
なんと声をかけられたのかは覚えていないが、気付けばそれなりに話をする仲になっていた。
「そろそろ
内藤さんは僕の返事を待たずにさっさとオフィスを後にした。
この年代の人には、一人で喋って一人で完結するタイプの人間が多いのかもしれない。昔いた会社でも、ここの会社でも、同じ年代の上司にそういった人間が数人いた。
時代というものは、多少なり性格や人格にも影響を与えるのかもしれない。
「そんな訳ないでしょ」
その瞬間は突然訪れた。
若い女性というよりは少女のような、あのかわいらしい声がした。
声のした方に顔を向けると、いつからそこにいたのかわからないが、一人の女性が隣の机に腰かけていた。
僕はさっと足元を見た。
黒いアウトソールに白のミッドソール。
アッパー部分は目に飛び込んでくるようなどぎつい赤で、サイドに白で縁取りされた印象的だが他の多くのモデルに比べると少し小さいアルファベットのNの文字と一五〇〇という数字が付いていて、その丁度中間地点からつまさき方向に進みシューホールの一番つま先側付近でほぼ九十度に曲がった黒いラインが入った靴。
ニューバランスの一五〇〇を履いているこの女性こそ、昨日の彼女で間違いないだろう。
彼女は、少しゆったりとしたシルエットのハイウエストのデニム、多分ボーイフレンドデニムと思われるそれを太めにロールアップして、アンクルソックスというのだろうか、くるぶしより少し上までの長さの白い靴下が見えるように履いている。
トップスは白で胸元にポケットが付いたTシャツをデニムにインして茶色のベルトが見えるようにしており、それがいいアクセントになっている。
黒色の細いフレームをした丸眼鏡で、髪の毛を頭の上部でお団子にして茶色のヘアバンドという出で立ちは、一見すると少女のようにも見える。
しかし彼女の顔を見ると、思いの
そんな探るような視線に気付いてか、彼女は顔をしかめて嫌そうな声でいった。
「じろじろ見ないでよ。変態なの?」
いきなり変態扱いされるとは思ってもみなかった。
確かに彼女が現れた事で僕は少し興奮していた。しかし、この興奮は決して性的な興奮という訳ではないので断固として否定する。
「心外ですね。身なりだって普通でしょ?」そう言ったものの彼女の反応がないので、僕は別の質問を口にする。
「それはいいとして、あなた、いつからそこにいるんですか? どこから入って来たんですか?」
彼女は嫌そうな表情を隠そうともせずに言う。
「そんな事どうだっていいでしょ」そして表情から一層嫌そうな雰囲気を
「それより、昨日の質問の答えは決まった? なにか気になる事とかあったら、質問してくれたら答えるけど。でも
今までの質問が仕様もないっていうのは少し心外ではあるが、とりあえずその事については受け流す事にした。
僕は昨日から気になっていた、この質問の意図について問うてみようと思う。
彼女が当初尋ねてきた「今の生活に満足している?」という質問への答えはもう決まっているので、なんとなく彼女との会話を楽しんでみるのも悪くないかもしれないと思い立ったのだ。
これが最後の会話になる可能性だってあるだろうから。
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