第六話 紫
один
「ムラサキカガミって知ってる?」
誰が言ったのかは思い出せないが、確かに誰かがその単語を言ったのは覚えている。
その日雨は降っていなかったものの、空にはどんよりと重厚な雲が、山脈に
そしてそれはまだ幼かった俺たちの不安感を
そんな日に俺たちはクラスで仲の良かったメンバー同士集まって、クラス対抗の大縄跳び大会の練習をしていた。とは言っても、練習は最初の三十分程で打ち切られ、その後は何人かのグループに分かれて話をしたり、壁球をしたり、鉄棒をしたりなど
そのどれかのグループの誰かが、俺たちに伝えたその言葉は、当時小学生だった俺たちに、トラック、いや旅客機でも突っ込んでくるかのような大きな衝撃をもたらした。
ムラサキカガミ。
その言葉を二十歳になるその日に覚えていると死ぬ。
そんな幼稚な都市伝説を当時は本当に信じていて、みんなが無闇に各々で恐怖を膨張させ、十年後の未来に訪れる死の可能性に怯えていたのだが、一つの恐怖というものはそう長く続かない。
十年後の未来などというものは小学生の俺たちにとって
しかし十年後はみんなの下に平等に訪れた。
いや、正確にはそうじゃない。平等に訪れるはずだったと言うのが正しいだろう。
何事もなく訪れると思われたそれを目前に控えて、俺たちは再びムラサキカガミと、それに
「ムラサキカガミって覚えてる?」
「ムラサキカガミ?」
俺は記憶の引き出しのいくつかを
比較的早い段階でその記憶を保管していた引き出しに辿り着いたので、記憶の整理と記憶の混在は防げた。その為、俺はそれについてスムーズに
「あったな、そんなのが。確か二十歳になる時にその言葉を覚えていると死ぬってやつじゃなかったか?」
小学校の時に流行った都市伝説。何故か異様な程その言葉に感じた恐怖が、遠く懐かしい記憶の中にある映像を思い出せば、思い出すほどに蘇ってくる、そんな気がして身体に妙な力が入ったまま言う。
「わざわざ今日思い出す必要ないだろ、そんな言葉。ちょっと悪趣味だぞ、陽一郎」
今日は小学校時代の同窓会――と言っても、その中でも仲の良かった六人だけの集まりだが――と
俺は不満を
何を勘違いしたのか俺のそんな表情を見て、にやにやとした顔をして「怖いのか?」と陽一郎は肘でつんつんと俺を突つきながら言った。
その時の陽一郎の表情が
そんな俺の横で、陽一郎は最新のスマートフォンの画面を点けると誰かにメッセージを送ろうと、文面を画面に這わせた指を滑らかに動かしながら
横目でそれを見るともなしに見ながら、頼まれていた酒を大量に買い物籠の中に放り込んでスナック菓子のコーナーまで歩いている最中、瓶と瓶、瓶と缶、缶と缶がぶつかりあって不思議なセッションを買い物籠と言う小さなライブハウスの中で何度も繰り返しているのに耳を傾けていた。
スナック菓子のコーナーに辿り着くと陽一郎がスマートフォンから顔を上げて、やっと買い出しの手伝いを始めた。
「おい、重たいんだから持ってくれよ。お前の方が力あるだろ?」
陽一郎は小中高と柔道を続けていて、今でも週末に警察署で開催されている柔道教室に参加しているし、筋トレだって毎日かかさないので、
一方で俺はと言うと、学校に通いながらバイトに明け暮れる
そんな男に三百五十ミリリットルのビールや缶酎ハイを二十四本と七百五十ミリリットルのワインボトルが二本、合計すればほぼ十キログラムもある買い物籠を持たせるなんて、こいつは頭の中まで筋肉で出来ているのかと考えずにはいられない。と言うか、理由なんてどうでもいいからとりあえずこの右手にかかる重力の負荷から俺を開放してはくれないだろうか。
左のポケットに入れているスマートフォンが俺の腕の震えと共振する様に
「ああ、すまんすまん。持つよ」
陽一郎は横から買い物籠の取っ手を掴むと、発泡スチロールでも持ち上げるかの様にその買い物籠をひょいと軽く持つ。
俺が苦労して買い物籠を持っていたのが馬鹿みたいだな。と思ったが馬鹿なのは陽一郎の筋肉の方かと思い直した。
俺は重力から解放されて自由になった代わりに、指先に残った痛みと熱を取り除こうと右手をぷらぷらと揺する。
陽一郎がスナック菓子を買い物籠の中に入れていくのを確認してから、俺は左手でスマートフォンを取り出す。
メッセージが届いていた。それは陽一郎からのものであった。
今日の同窓会メンバーで作ったグループのメッセージ欄を見ると「ムラサキカガミって覚えてる?」という、ヒラギノ角ゴ ProN W3の美しく完成されているはずなのに、特徴の少なさ故に何か物足りなさを感じるフォントが画面にぼんやりと浮かんでいた。
わざわざそんなメッセージを送る必要もないだろうと俺は思っていたのだが、皆は懐かしい言葉に昔を思い出してテンションが上がったのか、
「懐かしすぎ」「あー俺まだ十九だってのに……」「俺はもう二十歳になってるからセーフ」「はーちゃんが危ない」「今日の同窓会は中止しろ」「いやいや、真に受けすぎ」「ってか本当に懐かしいな」「あれめっちゃ流行ったよね」「実は俺めっちゃびびってた」「私もめっちゃびびってた」「みんなびびりすぎだろ」「そういうやつが一番びびってるパターン」「私今日誕生日なのに……」「陽一郎、謝れよ」
ネットを介する事で世界の距離がぐんと縮まった事を実感した。
昔だったらこんなに気軽に連絡も取れなかっただろうし、こうやって集まる事もなかったかもしれないと感慨深い気持ちを抱きながら、陽一郎が馬鹿みたいにスナック菓子を積み上げて、バランスの悪くなった買い物籠を見ていた。
その時だった、誰かが気配を殺して物陰からこちらを冷徹な視線で
周囲を見やるが該当する様な人物は存在しない。
ムラサキカガミの恐怖が十年振りに蘇った事で神経が過敏になり、過剰な心配をしているだけだろうと平静を装う為に一呼吸吐くと、陽一郎がその姿を
「お前、やっぱりビビってない? 昔から怖いの苦手だったもんな」
先程のにやにやとは違い、梅雨時のねちっこく身体を包んでじわりと侵す湿度の様に不快なにたにたとした表情を作り出して陽一郎はそう言った。
ここでいくら否定しても、逆に必死になって怖さを隠している様に思われるだけだろうと踏んで俺は答える。
「はいはい、怖い怖い。これで満足か?」
陽一郎はそんな俺の態度が不満だったのか、すっと顔を逸らしてレジの方に足を向けた。
これで陽一郎に怖がっているといちいち言われずに済むだろう。
陽一郎に俺がこんなに怖がっているのを知られたくないのは、実際に俺が怖がっているからだろう。ムラサキカガミという言葉を。
しかし何をこんなに恐怖を抱いているのか分からない。ただムラサキカガミと言う言葉とそのオカルティックな内容に恐怖しているだけならここまで全身が粟立ったりしないのではないかと思う。
しかし何故だろう、俺の中でムラサキカガミの事が排水溝に溜まった髪の毛の様にいくら水で流しても流しても
それはつまり、ムラサキカガミによる死の可能性を現実的に受け止め恐怖している自分がいると言う事で、遥香の死の可能性を少なからず想像している自分が存在する事に他ならない。
この違和感が虫の知らせという事もあり得るのかもしれないが、俺はその考えを頭の引き出しの奥に無理矢理詰め込み
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