第七話(第零話) 白

jeden

『あなたは何者なの? 彼女はシニカルな表情を浮かべたまま、質問には答えずに、逆に私に問うた。今の生活に満足している?』

「とりあえず一話目は、こんな感じでいいか」

 僕はそう言って、ノートパソコンに打ち込んだ文章を保存する。


 小説を書くなんていつ振りだろう。

 高校を卒業して大学には入らず就職する道を選んで、ある程度お金が貯まった時に一度同人誌を出した事があったが、それが何年前の事かすらもう覚えていない。

「あれ以来、一度も書いていなかったのか」

 昔の記憶を蘇らせて、しみじみと物思いにふけっていると、娘の泣き声が聞こえた。

「あっ、起きた」

 娘が目を覚ましたみたいだ。

 僕は娘が眠る布団に向かう。向かうと言っても、1LDKのこの家では隣の部屋に移動するだけなのだが。

 娘は嫌な夢でも見たのか、掛け布団をいで、その場に座り込んで泣いていた。そんな娘を抱っこして背中を軽くとんとんと叩きながら言う。

「大丈夫。パパがいるよ。もう一回寝んねしようね」

 娘は最初の内、もぞもぞと身体をくねらせて僕から逃げる様に動いていたが、次第に落ち着きを取り戻して、もう一度目を閉じ眠りにいた。


 娘は最近よく夜中に目を覚ます。

 夜泣きの時期はとうに過ぎたものだと思っていたが、周期的に何度もやってくるものなのかもしれないな。と思いながら、ずっしりと重たさが腰に響くまでになった娘の成長を感じていた。

 娘が産まれてから、まだ一年半。いや、もう一年半と言った方がしっくりくるか。

 その間娘には、辛い思いを何度も何度もさせてしまったなと申し訳なく思っている。


 仕事柄、僕も妻も夜勤があるので、どちらかが娘と過ごして、どちらかが仕事をするというパターンの日が月に数回はあった。当然日勤の日もあるので、保育園に預けているとほぼ丸一日娘と顔を合わせない事もある。

 こんな生活は子どもからするとストレスだったりしないのだろうか。

 そんな話を妻とした事もあったが、僕自身給料が多い訳ではないので、妻と娘二人をしっかりとやしなっていける自信がなかった為に、結局今の生活を続ける事になっている。

 僕が子どもの頃にはいつも近くに誰か家族がいてくれたものだった。そして、それが普通の事だった。

 でも今は我が家の様に両親が共働きで、子どもは保育園や幼稚園に預けて、家族の時間が少ない家庭が増えているらしい。それに伴ってかは分からないが、日本は夜更かしの子どもがとても多いと言う話を聞いた事もある。

 家族の時間を作ろうと思うと、必然的に夜になってしまう。仕方がないのかもしれないが、それも子どもにとっては良いとは言いがたいと僕は思う。

 子どもにとって睡眠も大切なものだと知っているからだ。

 寝る子は育つ。

 昔からある言葉だが、それはまぎれも無い事実だ。

 家族との時間。

 子どもの成長。

 どちらも無下むげには出来ない。

 家庭と仕事の両立は、現代の日本社会が抱える大きな問題の一つだと、僕は思っている。


 そんな事を考えながらも何の解決策も見出みいだせないまま、眠った娘を布団の上にそっと戻して、掛け布団をかぶせた。

 静かな寝息が部屋の空気を微かに振動させて、娘の存在を強く主張している様に思えた。

 僕はそんな娘のほおに自分の頬を当てて、その温かさを受け取ってみる。

 僕が娘を愛する気持ちが少しでも伝わったらいいな。と思いながら、当てていた頬をそっと離してリビングに戻った。


 一度は終わりにしようと思って閉じたノートパソコンを、僕は何故か再び開いている。

 どうしてなのか僕の頭には彼女という人物の物語がいくつも浮かんできていて、それを文章に起こさなければ気が済まなくなってきている事に気付いた。

 心の中に薄い膜のようなもので包まれた彼女というものの核があるのではないかと疑いたくなるほど、僕は自らが作り出した彼女に魅了されながら、彼女に近付きたい、果ては彼女になりたいと思い出していた。そんな意味の分からない思考におちいってしまうのは、慣れない執筆作業の所為せいであって、きっと先程まで書いていた作品に深くのめり込み過ぎてしまったからだろうと無理矢理に自分に言い聞かせる。

 それでも僕の中にある薄い膜に包まれた彼女の核は、小さくではあるが確実に鼓動を打ち続けていた。

 それに気付いていながらも僕は心の中に、森の奥深く自然の発する音だけしか聞こえない荘厳そうごん静謐せいひつな空間を思い浮かべてそこに飛翔ひしょうし、その空間の中にその核を置く事でどうにかその鼓動を静謐の一部として取り扱おうとつとめた。

 努力はむくわれると誰かが言っていたのだ。それがどの程度無謀むぼうな事に対してまで有効なのかは、僕ではなく神がおもんぱかるところなのだろう。僕はただ一心不乱に1LDKの部屋の中でノートパソコンのキーボードを叩き続ける。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る