kolme


 世界に亀裂が入った、しくはほころびの様なものが生じたと感じる出来事があったなどすっかり忘れて、私は一年間ダム建設の反対運動や町長への直談判じかだんぱん、周辺住民への理解と協力を求めて奔走ほんそうした。

 結果から言うと、惨敗だった。私一人が動いたところで、何も変わらなかった。


 残酷にもダム建設はスタートされ、まさに今日、この美しく彩られた自然界のパズルは破壊されていくのだ。

 たゑさんとそれ以外にもこの集落に住む八人の人達は最初こそ私に協力してくれていたが、町の代表と言ってやってきた、気色きしょくの悪い作り笑いをしたマスクを顔に貼り付けて、価値も分からないでただ値段が高いというだけで買ったのであろう小奇麗なスリーピース・スーツを身に着けた初老しょろうの男からお金を受け取ると、彼女らは私に干渉しなくなった。


 私だけだったのだろうか、この自慢の景色を守りたいと思ったのは。


早苗さなえちゃん、ちょっと」

 不意に声をかけられ振り向くと、家の引き戸の玄関を少し開けて、その隙間から顔を出す、三和土たたきに裸足で立っているたゑさんの姿があった。

 久し振りに話すので少し警戒したが、あの皺だらけの顔で微笑むたゑさんの顔が胸の奥の方で薄ぼんやりと浮かび上がり、そこがそっと温かくなるのを感じたからか、すんなりと返事が出来た。

「なに、たゑさん?」

 たゑさんは手招きして私を玄関の方に近付かせると、言った。


「悪いんだけどね、みんなが嫌がるから、ここから出て行ってくれないかい」


 一瞬何を言っているのか分からなかった。

 ここから、なんだって?

 ここから出て行ってくれ。

 私がその言葉を嚥下えんげした時にはもう、たゑさんの皺だらけの顔はそこになく、無慈悲にも閉じられた引き戸があるだけだった。


 私は一年前を思い出して、あの玉ねぎとじゃがいもを収穫した日に感じた違和感を思い出していた。

 あの瞬間からもう、私の運命は決まっていたのかもしれない。

 私はぼんやりとして身着みぎまま、ちゃんと整備されていなくて、更に勾配がきつい事もあり車でも苦労する不便な道を、ダム建設現場に向けて歩き出した。


 どれくらい歩いたのか分からないが、私はさっきから見た事も歩いた事もない道を延々えんえんと歩いている。

 喉も渇いたし、なにより足が痛くてもう歩くのが面倒だ。

 目先、数メートルのところにある石まで歩いたら、少し休もうと一歩を踏み出す。

 枯葉を踏みしめる乾いた音と地面を踏み固める湿った音が平穏へいおんの中を木霊こだまする。


 しゃっくしぎう、しゃく、しゃっくしぎう、ぎゅむ。


 私は立ち止まり、背後に神経を集中する。間違いなく背後に誰かがいる。確かに足音が二重に聞こえた。

 私はどうするべきか尻込みした。

「遭難って感じじゃなさそうね」

 不意に聞こえた声に驚きつつも、振り返って声の主を認識する。

 一人の女が、私が踏み締めた事で落ち葉と地面の境界が曖昧になった地点の上に、つくねんと立っていた。


 長い上の睫毛が重力に逆らうように綺麗な放物線を天に向けて、二重瞼でぱっちり開いた強い目力をたずさえた目の持ち主が私の様子を嘲笑あざわらうかの様に、その少女と言って差し支えのない若々しい声で山中の空気を微振動させる様子は、どこか現実から乖離かいりしている様に思えた。

 現実から乖離しているように思ったのはそれだけが理由ではない。

 山には不釣り合いな靴と服装も、また現実との乖離を一層色濃く主張するようであった。


 靴はアディダスのスタンスミス。

 アッパーやアウトソールなどベースは白だが、ブランド名やモデル名と共に、このスニーカーがシグネイチャーモデルである事を主張する、テニスプレイヤーのスタン・スミスの顔とサインをあしらった緑のシュータンと、アディダスのロゴとモデル名が書かれた緑のヒールパッチが強い存在感を持っている。

 服装は、膝小僧が丁度隠れる丈の薄い生地で出来た白いプリーツスカート。

 同系統のブラウスの上には、スタンスミスの強い存在感の元になっているのと同じ緑色をした、オーバーサイズのスウェットを着て手は袖の中にすっぽりと納まっている。

 スタンスミスとプリーツスカートの間の空間は綺麗な白い足と、それを少しだけ覆い隠す白色のクルーソックス。

 前を真一文字に揃えた髪の毛を覗かせて、白色のベースボールキャップを浅く被っている。

 かわいらしい甘めのコーディネートだが、ベースボールキャップが甘さを少しマイルドにしているのが、彼女の顔の雰囲気から感じる印象にとても似合っている。


 しかし、ここは山の中だ。

 その服装はこの空間にいるにはあまりに不釣り合いで、赤色と黄色と茶色が群生ぐんせいするこの空間において明らかに異彩いさいを放っている。

「あなたは山に迷い込んで、いかにも遭難していますって感じ」

「皮肉を言っている余裕があるなら、もう少しダム建設を抑止よくしする方法でも模索もさくしてみたら? それとももう、そんな事はどうでも良かった?」

 彼女は冷たい表情のまま言った。肌の白さもあってか、その冷たい表情から発せられる冷たい言葉に私は畏怖いふの念を抱いた。


 殺気を極限まで抑え、自然と一体化して獲物に狙いを定める野生動物の様に、突然目の前に現れた彼女は、なぜか心の内を読み取れるかの様に的確な言葉で、私に言葉で襲い掛かかった。

 それはとても深く、私の心をえぐりとった。


「もうこれ以上、私が頑張る事なんてないのよ」


 いい歳した大人の女がみじめだと思われるかもしれないが、私はうつむいて泣いた。

 美しく彩られた自然界のパズルを守る事、それは私を変えてくれた大事な場所を、たゑさんとの、そして集落のみんなとの場所を守る事であり、現代社会というパズルを完成させる為の足がかりであるはずだった。

 しかし、この集落の中のピースすら守る事が出来なくて、何が現代社会のパズルだろうか。


 私に残されたのは悲愴ひそう寂寥せきりょう憤怒ふんぬだけで、もはやこの世界に希望などというものはいだくべきではないのだと悟った。

 人間なんてものは結局どこに住んでいようと、根っこの部分は何も変わらないのだ。

 悲観的な考えが脳にある皺の隅から隅まで縦横無尽に根を伸ばしていく。

 こういう時に考えてしまうのだろうなと思う。


 死というものについて。


「涙を流せるって事は、まだあなたの中に後悔があるんじゃないの?」

 優しく心配でもしている様な言葉とは裏腹に、彼女の表情はシニカルという葉によっておおいつくされている。

 その姿はとても不気味で私は恐怖を感じながらも、コンビニエンスストアの前にかかげられた殺虫灯に飛び込む虫たちの様に、不思議な魅力に吸いつけられるかの如く興味を抱いてしまい、目を離す事が出来なくなっていた。


 彼女は言った。

「今の生活に満足している?」


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