sedm

「とりあえず一話目は、こんな感じでいいか」

 僕はそう言って、ノートパソコンに打ち込んだ文章を保存する。

 小説を書くのは何度目だろう。

 僕は並行世界に迷い込んで幾度いくどとなく『彼女を待ちながら』を執筆している。

 一つの並行世界で彼女を出現させて、また別の並行世界で彼女を出現させるのを繰り返す。


 彼女はいつも僕に付きまとう。

「今の生活に満足している?」「ああ、満足しているよ」「娘を見放し妻に見放され、わたしを形作る為に幾度も同じ作品を書いて、それでもあなたは満足しているの?」「ああ満足しているよ」「これでも?」「どうして……君が」「別に靴なんて、この世に一足しか存在しないって訳じゃないんだから」「それもそうか」「どう? 本当に今の生活に、今の人生に満足している?」「どうなんだろうね、僕にはもう分からない」

「そうやって思考を停止させるのは簡単な事ね。ただ流れに身を任せていれば、かれたレールの上を黙々もくもくと進んでいけるし、そのまま粛々しゅくしゅくと物事を終えていくだけで良いのだから」

 僕は彼女が履いているオールホワイトのインスタポンプフューリーを眺めながら、知らず目に涙をめて、彼女の存在の様に希薄きはくな説教を聞いている。


 今になっても僕は彼女が何者なのか理解出来ない。

 都市伝説であり、特異点であり、悪魔であり、存在していないものであり、ただそこにいるものであり、神である彼女。

「結局のところ」僕は声を震わせ――この震えが恐怖、憤怒ふんぬ悲愴ひそうのどれから生じたものかは分からない――、後悔を身体に染み込ませながら、妻と娘の顔を思い浮かべて言った。

「君は何者なんだ?」


 彼女は、何故か美しくそれでいてはかなさを纏った笑顔をして言った。

「私は後藤みか。あなたの娘よ」

「ろうちゃん。今日用事ある?」

 彼女の声に覆い被さるように聞こえてきたその声は妻のものだった。


 僕は知らない内にノートパソコンの画面を見ていた。そしてその目を妻に向ける。

 僕は目に溜めた涙をあふれさせる。

「ちょっと、何泣いてるの?」

 突然泣き出した僕を見て、妻が狼狽ろうばいしているが、止めようと思っても涙は止まるどころかますます溢れ出していき、その涙の中に彼女であり後藤みかであり僕の娘であるものの核が混じって溶け出していく。

 幾度も並行世界を渡り歩いた僕は、ここが一番最初に僕が存在していた世界である事に気付いていた。


 僕は戻っていた。


 僕は急いでノートパソコンの画面に映し出されていた文章の羅列を消す。

 妻がそんな僕の様子を見て不思議そうにしてから、ノートパソコンの画面を覗き込む。

 その時すでに書き終わっていた『彼女を待ちながら』の第一話のファイルを、僕は消去しようとしていた。

 妻が驚いた表情をして言った。

「せっかく書いたのに、消しちゃっていいの?」

「僕には才能が無いから、書いたところで仕方ないよ」

 僕は椅子から立ち上がりながら妻に言うと、玄関に向かった。

 そこに置かれた妻のオールホワイトのインスタポンプフューリーを手に取る。先程彼女――後藤みか――が履いていたのは、この靴だった。

 それは同じ種類同じカラーであるオールホワイトのインスタポンプフューリーという意味ではなくて、妻の所有するオールホワイトのインスタポンプフューリーを彼女――後藤みか――が履いていたという意味であって、今僕の手にあるものに比べると彼女が履いていたそれはかなり薄汚れてはいたが、それが一層その事実を真実だと伝えのるに一役買っている様に思えた。

 彼女の気配の端くれがこびりついているその靴を、再び玄関に置き直して、僕はリビングに戻った。


 妻は娘に絵本を読んでいたが、僕の不審な様子が気になっているのか、目線だけをこちらに向けた。

 僕は幾度も並行世界を渡り歩いた所為せいなのか身体がだるく、今すぐにでも寝たいくらいで足取りもふらふらとして不安定かもしれないが、それでももう一度僕は妻と娘とやり直したい、いや、やり直せると信じている。

 娘は絵本を読んでもらって嬉しいのか、笑いながら手をぱちぱちと叩いている。

 もう僕は大丈夫だという意味を込めて、妻に下手くそな笑顔を作る。


 そんな僕を見て妻は言った。

「相変わらず、笑顔が下手ね」

「私は後藤みか。あなたの――」

 妻の声におおい被さるように聞こえてきた彼女の声は、ノイズでも入った様に最後まで聞き取ることが出来なかった。


 さっきのはなんだったんだ?

 サッキノハナンダッタンダ?

「あなたはまだ分かっていないのね」

 なにが分かっていないのだろうか。


「私は特異点であるが故に、この並行世界の中に接する地点をいくつも持ち合わせている、しくはどこにも属していないという二つの可能性のどちらかの性質の下で活動していて、それは並行世界を移動するたびに変化する事になるの。わたしが幾つかの並行世界に存在していると言う一つ目の性質の下で活動している時、わたしの存在は当然幾つかの世界に分かれている訳だから、人間一人分の存在と言う概念がその幾つかに分断されてしまう。そうするとあなたと対峙するわたしは、その人間一人分が発する存在よりも必然的に小さな存在となってしまい結果希薄になってしまう。二つ目、これは簡単ね。わたしがどこの並行世界にも存在していない性質の下で活動している場合、そこには当然わたしは存在していないので、ただわたしが居た頃の気配と言うものの残滓ざんしを漂わせているだけ。それに感化された人間が脳の中にわたしという虚像を作り出して、そこにわたしが存在していると錯覚しているだけの事。そしてもう一つが大事。特異点と言うことは私はブラックホールと同義で、重力の大きさが無限大になってしまう一つの点でもあるの。あなただけじゃないけれど、この本の中の登場人物が読者にどう観測されていると思う? 答えは簡単、ブラックホールに落ち込んだ時と同様に見られてるの。二つに分裂してその内の一つは灰になり、もう一つはブラックホールの中に半永久的に落ち続ける。その中で登場人物はゆがんだり、伸びたり、縮んだりして見える。そして落ちて落ちて落ちていけば落ちていくほど、その落ちていくスピードは遅くなっていく。スピードが遅くなるって言っても落ちるスピードがただ遅くなる訳じゃなくて、時間の概念自体がじ曲げられて観測者からすると落ちていくもの、つまり登場人物であるあなたたち自体の動きの全てが遅くなっていくって事。そしてあなたたち登場人物が事象の地平面に到達しようとするその瞬間、ほとんど停止したといって言い程に遅くなったあなたたちはものすごくゆっくりと灰になっていく。それが真理であり、この世界のことわりってやつらしいわ。つまり、あなたたち登場人物は『彼女を待ちながら』の中で半永久的に生きていく。そしてその様子は観測者である読者に娯楽として半永久的に見られ続ける事になる。何度も藻搔もがいて、現実と信じたこの作品の中で、歪んで伸びて縮む程度の変化を観測者に提供していくの。ちなみにわたし自信、その半永久的に続く時間がどの程度のものかは分からない。それこそ神のみぞ知るって言葉の通り。もしかしたら、五億七千六百万年。一説には五十六億七千万年っていうのもあるけど、それが事象の地平面に到達するまでの時間なのかもしれないわね。釈迦牟尼仏しゃかむにぶつ入滅にゅうめつ後、弥勒菩薩みろくぼさつ下生げしょうするまでの期間である、この時間を過ごせばあなたはやっと役目を終えられるのかもしれない。とりあえずそれまでは、あなたはこの世界にとらわれ続けて生きていく事ね」


 彼女はそう言うと、もう僕には興味がないとでも言う様にリビングを出る。開け放った扉の先をふらふらと独特の歩調で行く彼女の背中に、僕は少しだけでもと、道端に落ちている小さな石ころ程の希望の光を探し藻掻いてみせる。

「さっきの、君が僕の娘だって言うのは」

「並行世界のどこかの一つにくらい、そういう世界があってもおかしくないんじゃない。あなたの希望の光の世界。でもそれはここではない」

 彼女は僕が最後まで言い切る前に答えた。

 僕の心にも脳にも、絶望というものが堂々と腰を据えた。


「あと一つだけいいかな?」

 僕は言った。

「なに?」

 面倒くさそうにこちらに顔だけを、それもしっかりとこちらは向かず聞いているというのをわざわざアピールする為だけに少しだけかたむけて彼女は言う。

 僕はそんな姿に不快感すら覚える余裕もなく言う。

「最後に妻の声に覆い被せて言った、あの言葉。あれは何て言ってたんだ?」

 彼女は気怠けだるげにこちらを振り返ると、あのシニカルな表情をして言った。

「そんな事、もう忘れたわ。それとこれだけは言っといてあげる。あなたはわたしの事を神だと思っているみたいだけど、わたしはこの世界の神では無いから」

 彼女は再びゆらりと揺蕩たゆたうと玄関から姿を消していった。


 残されたのは、ノートパソコンと、僕と、流動りゅうどうしない陰気な空気に包まれたこの1LDKの部屋にある無機物たちだけだった。

 僕は無機物の一つに腰掛けると、自らの両手で文章を構築していく。

 僕がいくらか父親らしく振る舞い、家族の時間を大切に過ごして、成長した大切な娘と少し年を取って顔に皺が増えた愛する妻と共に歩む未来を、一時ひとときの間つむぎ出す。いつか再び、僕の希望の世界という並行世界に行けるとそう信じて。

 淡い泡沫ほうまつに包まれた考えだと言われてしまうかもしれないが、その並行世界に行く時に僕を迎えに来るのが、僕の娘であって欲しいと願った。

 絶望の淵に垂らされた蜘蛛の糸だったり、繰り返す世界を象徴する作品の中に立つ力強い一本の木の様な希望を、絶望の核に隠す。

 今ここの並行世界にはいない、彼女を待ちながら。

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