おまけ其ノ四 古い写真
大きなトタン屋根の下に開放されたピットが並ぶ。
いつもなら車検に向かう整備車両でごった返しているテスター屋『小此木センター』も、今日はメンテナンス日。
陸運局の休みが土日祝である関係上、テスター屋もそれに倣うのである。
よく晴れた休日の午前中。
ガランとした駐車スペースには日よけのパラソルとデッキチェア、その隣に小さなテーブル。そしてアロハを着たひとりの老夫の姿があった。
彼こそは『小此木センター』の大親分にして渚の車の師匠、
読みかけの文庫本を胸に置き、安らかな顔で高いびきをかいていた。
夏真っ盛り。
日増しに暑くなる気温に、テーブル上のトロピカルドリンクも辟易している。そのうち氷も溶け出して、ちょっとした空気の振動にグラスがからんと鳴った――。
どこか遠くで歌声のようなエンジン音がした。
むせび泣くブルースにも似たそのエキゾーストノートに、老夫はぴくりと反応する。
「きたか――」
しばらくすると国道を曲がって一台のバイクが店へとやって来た。
古めかしいデザインのイタリア車だ。
世にも珍しい縦置きVツインのエンジンに、サイドカーまで付けて。
それを運転するのはゴーグル姿がよく似合うガタイのいい青年。そして横に乗るのは見覚えのないショートヘアの小娘であった。
老夫はデッキチェアに預けていた上半身を起こして、大きな伸びをする。
あくびをひとつすると、トロピカルドリンクを一口飲んだ。
「お客さん。今日は休みなんだがねー」
老夫はデッキチェアに腰を下ろしたままでバイクの主へと悪態をついた。
するとゴーグルを外して首に掛けたライダー――稗田 渚は、相変わらずだと笑みをこぼす。
「休みの片手間に生きてるジジイが何言ってんだよ。こうしてボケないように会いに来てやってる弟子に感謝しな」
「ほっ。いいよるわ、この青二才が」
「ハハハッ」
バイクを降りた渚はそのままサイドカーの横へと立ち、搭乗する小娘へと手を差し伸べた。
よっこらしょっと、言いながら彼女はコンクリートの地面へと降り立つ。
短パンのサロペットにTシャツというラフな出で立ちに、一見すると少年と見紛うばかりではあるが、たわわな胸元と健康的な脚線美が老夫の心をガッチリと捕まえた。
小此木 皇――すでに齢八十になりなんとする一介の整備士はしかし、いまだどこもかしこも現役なのである。
「おいジジイ……」
「なんじゃ」
「なんでサングラスした?」
「ほえっ」
いかな老夫といえども本人を前にして生足をガン見するには躊躇はあったようで――。
アロハの胸ポケットに外したサングラスを戻しつつ、ガハハと高笑いする老夫を見るや、当の小娘もまた堪えきれなくなった笑みを発散させる。
「あははは。大島 夏希です。お噂はかねがね」
「おうっ。小此木 皇だ。どうせこの悪たれからろくでもないこと聞かされてんだろ?」
「そーんなこと。いつも師匠、師匠って言ってますよ。まるで子供みたいに」
「そりゃあ初耳だねぇ。そこんとこ詳しく――」
「余計なこと言ってんじゃないよ、この小娘」
「なによー」
古いバイクの前に並んで立つふたりの姿に、老夫は「なるほどな」とひとり静かにごちる。
その脳裏には、かつての思い出がよぎっていた。
目を閉じれば昨日のことのように蘇る記憶。まだ整備士としても駆け出しだったあの頃の自分と、兄と姉のように慕っていた『あのふたり』の面影がこのふたりからは漂う。
心地よいまどろみのなかにでもいるような感覚である。
老夫はそのまま「うんうん」と頷いていた。
「アンタが夏希さんかい。ようやく会えたねぇ」
「あたしもです。えーと、なんて呼んだらいいのかな?」
「アラン・ドロンとでも」
「ジジイで十分だ、ジジイで」
「ガキはすっこんでろ!」
「あはは。じゃあコウちゃんで」
「コ、コウちゃん?」
正直、老夫は驚いた。
自分をそんな呼び方するのは、かつてひとりだけだったから――。
「あ、馴れ馴れしすぎましたっ?」
「いや……アンタがそう呼んでくれるなら、それでええ。ありがとうよ、ナツさん」
「ふふふ」
「おう、ナギっこ。ワシはこの娘っ子気に入ったぜ!」
するとすでにバイクを整備場へと押していった渚が、背中越しに片手を挙げて無言で応えた。
ひらひらとする手のひらから「あら、そうですか」とでも聞こえてきそうだ。
「――なんか
「ん? 会ったことあんのかい?」
「こないだ、USBに入ったビデオメッセージが発見されまして」
「ほっ! 小洒落たことしやがるなあの野郎。まあヤツにパソコン教えたのはワシだが」
「え? そうなんですか? ハイカラ~」
「当時ハマってたオンラインゲームのレギオンメンバー足んなくてさ」
「そ、そんな理由っ?」
若いな~と夏希に言われ、再び高笑いの老夫。
抜けるような青空の下。
約束を守った弟子の背中を横目で追った。
隣に乗せたくなったヤツも連れてこい――。
あの日、軽い気持ちで投げかけた自分の言葉が老夫の脳裏をかすめた。
自然と口元が緩んでいく。
「カワイイとこあるじゃねえか、あの野郎……」
「え? コウちゃん、何か言いました?」
「ん? なんでもねえよ。それよりナツさんコーヒーは好きかい」
「とっても」
「じゃあとびきり美味いのを淹れてやろう。さあこっちだ――」
老夫は事務所へと夏希をうながした。
かつてこの娘に似た女性から教わったコーヒーを、今度は自分が淹れてやる番だと。
ひとの縁というは不思議なものだ。
まったくの無関係のようで、どこか大きな円を描いて戻ってくる。
老夫は壁に掛かった古めかしい写真を見上げてそう思った。
若き日の自分と咲良、そしてその妻・
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