第30話 短い手足と遠い夢

 早起きは三文の徳とは、先日シブちゃんから贈られた言葉だ。

 それが巡り巡って今日は渚の新しい一面が見れた。


 夏希は道場へと足を踏み入れようとする。しかしさっきまで裸足で中庭を歩き回っていたことを思い出し、文字通り二の足を踏んだ。

 すると渚がタオルを投げて寄越し「使えよ」と言った。


「サンキュ。ねえ。道場ってどっちの足から入るんだっけ?」


 道場の門戸に寄り掛かり片方づつ足を拭く。

 ホットパンツから下着がチラ見しようともお互い関心がないのは相変わらずである。


「へえ。そういうの気にするタイプ?」

「郷に入れば郷に従えって言うじゃない」

「……お前が郷に従ったところを見たことがないんだが」

「うるさいなぁ」


 眉間にシワを寄せて、夏希はタオルを渚に投げ返した。


「おまえ利き足は?」

「へ? 右脚だけど……」

「じゃあ右からだな。普通は上座から遠いほうの足から入るって言われてるけど、ウチじゃ作法に関係なく利き足から入る」

「なんで?」

「たとえば伏兵がいて、入りざまに足首から先を切り落とされても軸足さえ残っていれば反撃に転じることが出来るからな」

「なんか凄いことサラッと言ってない?」

「まあウチは武道家じゃないんでね。その辺は結構アバウト」


 郷に従った夏希は、右脚をすっと畳へと伸ばした。

 緊張したふくらはぎが艶めかしいカーブを描く。この女、ちんちくりんではあるがパーツそのものは結構いやらしい。それが同僚の男性社員たちから視線を集める原因なのだが、本人からすれば誠に迷惑な話である。


 ふたりは道場の真ん中へ来ると、その場に腰を下ろした

 渚はあぐらを組み、夏希は両の脚を投げ出して座っている。高い天井に明り取りの窓。それから二十畳敷きの広々としたスペースは、たったふたりが佇むには余りある。

 夏希は神棚の下に掛かった『見敵必殺』の文字を見て、あらためて疑問に思った。


「武道家じゃないってことは……『稗田流』って何なの?」


 端的なその質問に対して、渚は腕を組み「うーん」と頭をひねった。


「ものすごくざっくり言うと忍術に近い」

「忍術ってあの……だってばよ的な」

「あれは忍術というかもう超能力の部類だけどな。まあその忍術だよ。ただ『稗田流』の生業は諜報活動とか後方撹乱任務じゃなくて、もっぱら暗殺業務だったから爺さんはその技術を転用して警備会社を立ち上げたのさ」

「へぇ~……っていやいや暗殺ってアンタ……」


 あっけらかんとのたまう渚の姿に、先日の柊老人を思い出した。

 まぐれ当たりのラリアットを別にすれば、文字通り手も足も出なかった。

 それが暗殺の技術の一端であると言われれば納得もいくが、『稗田流』とは夏希が思っていた以上に業が深い。

 その現当主である渚の父親・悟海とは一体いかなる人物だというのか――。

 想像するだにおっかなかった。


「まあこの道場は、晩年の爺さんが近所の子供たちのために開放してたらしい。最近は物騒だってんで護身術教室とか言ってな」

「そう言えば裏のお婆ちゃんが、咲良さんは町の守り神だって言ってた」

「爺さんらしいわ」


 蝉の声にふたりの笑い声が重なる。

 遠くのほうからトラックの音が聞こえる。朝――徐々に町が起き上がってくるのをひしひしと感じながら夏希は大きく伸びをした。


「あたしもなんか練習しようかな。最近身体なまっちゃって」


 ボキボキと背骨が鳴った。

 突き出された大きな胸が、寝汗で張り付いたノースリーブを押し上げる。

 それを見た渚は「そういえば」と口を開く。半分呆れ顔だが、彼女の部屋着に関してはもう諦めているようだ。


「そっちこそ何かやってたのか? ただのプロレスファンじゃ、あのオジキからスリーは取れないぜ、普通」


 夏希はあぐらを組み直して「ふふーん」と渚に向かい合う。

 あごを突き出し自慢げである。

 それから少し寂しそうな表情をして「あのねー」と続けた。


「あたし女子プロレスラーになるのが夢だったんだ」

「ほぉ」

「ちっちゃい頃に近所でやってた子供プロレス教室ってのがあってね。ちょうどそう……こういう道場みたいなところに通ってて」

「技の基礎が異常にしっかりしてたのはそのせいか」

「でも身体が小さいから諦めちゃって」

「おいおい。いまどき小学生でもプロデビューできちゃう時代だぜ? 団体さえ選り好みしなけりゃ身長なんて――」


 夏希は少し困ったような顔をして伏し目がちに遠くを見た。

 畳の目をひとつひとつ追いながら、まるで渚の質問から逃れるように。


「……でもあたしのやりたいプロレスはそういうのじゃないから」

「そっか」


 夏希の答えに納得したのか、渚はそれ以上は何も聞かなかった。

 でも――。


「うそ」

「あ?」

「本当はね。ビビっちゃったの。こんなちっちゃい身体じゃプロの世界でやっていける訳ないって。自分で勝手に限界作って。そこから――逃げちゃった」


 いまの自分がどんな顔をしているのか分からなかったが、渚の表情を見れば察しがつく。

 泣きたいような、笑い飛ばしたいような。

 メイク前の短い眉毛が下がる。きっと不細工な顔してる――夏希はそう思った。


「後悔してるか?」

「……分かんない。でも納得はしている。でも」

「でも?」

「アンタには前に進んで欲しかったから、バイク」

「ああ――それでか」


 走り出したらもっと分かるかもしれないよ。お爺さんのこと――。


 思い出に浸って立ち止まったままの渚にどうしても伝えたかったあの日の言葉が蘇る。

 それはきっと自分にも言って欲しかった言葉だったんだと思う。

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