第29話 早朝は別の顔
稗田一族の分家総代・稗田 柊の許しを得て、大島 夏希は正式に稗田邸の住人となった。
持ち前の図々しさやたくましい精神構造をしているとはいえ、『本稗田』のことを気にかけていなかった訳ではない。
ましてやどこの馬の骨とも分からない未婚の女が、絶縁中であるとはいえ『稗田グループ』の御曹司の家に転がり込んでいるのである。
やれ財産目当てだの、詐欺師だのと呼ばれたらどうしようかと本当は思っていた。
一見、堅物のように思えた稗田 柊という人物は、夏希の先入観をことごとく裏切るかのような柔軟な思考の持ち主であった。
渚に対して厳しい態度を取ることはあっても、彼の性的嗜好を否定するような話し方は一切しなかったのである。
夏希や渚は自分たちに向けられる嫌悪の気持ちには敏感だ。
悪気はなくとも多数派に属するひとたちは皆、自らを『普通』と口にする。
たとえそこに差別的な意識はなくとも、言外に『普通』ではないと断じられる者たちの気持ちなど汲みようがないのだ。
しかしそういった者たちに柊老人は当てはまらない。
それは性的マイノリティーに理解があるとかそういうレベルでもない気がした。
ひとをありのままに受け入れている――。
生きてきた歳月がそうさせるのか、はたまた持って生まれた資質がそうなのか。
兎にも角にも、夏希はかの白髪の「達人」を存外気に入っていた。
憂いも晴れて日々OL業を邁進する夏希。
時折、麗に叱られたりして仕事をこなしている。
シブちゃんとの仲は相変わらすだが、それはそれで心地が良い。
頼まれていた資料もようやく出来上がり、引っ越しをしてから最初の週末が訪れた。
ちょうど一週間前の今日。
渚とプロレス会場で出会ってからというもの怒涛の毎日だった。
さしもの夏希も心身ともに疲れている。
今日くらいは朝寝坊しても許されるだろう――そう思っているときに限って早めに目が覚めてしまうものだ。
頼んでもないのに朝から蝉がジージーと鳴いている。やかましいったらありゃしない。
夜中にタイマーでエアコンを切っているので、汗だくだ。
渚に「意外とでかい」と称されたおっぱいの下にあせもでも出来そうである。
二度寝をしようにも、お尻の割れ目までぐっしょりで気持ちが悪い。
夏希はシャワーを浴びるためにムクリと布団から起き上がった。
シーツには人型の汗ジミがうっすらと出来ている。
スマホで時間を確認するとまだ六時前。
すごく損したような気分になって立ち上がると、おもむろに霧吹きを手にした。
和箪笥のうえには引越し祝いに渚からもらった多肉植物がある。
ガラスボウルに寄せ植えされた小さな桃源郷は、今日も緑と赤紫のコントラストが美しい。
枯らしちゃいけないと、ズボラな彼女なりに世話をしているのである。
そもそも乾燥に強い植物ということで、あまり水やりも良くないとは聞くが、そこはそれ育て始めはついつい色々とかまってしまう。
どうせ自分のことだ。しばらくしたら飽きてしまうだろうとは思っている。
思ってはいるが――。
霧吹きを一度シュッとしたあとの多肉植物は嬉しそうに見えるのだ。
それを見た夏希もまた、毎日が「嬉しい」から始まることに喜びを感じている。
恋人に去られてからの数ヶ月はこんな気の安らぐ時間などなかった。
目が覚めて隣を見ると誰もいない日々。
朝など来なければいいのにと何度思ったことか。
夏希は自室を出るとその足でシャワーへと向かった。
ノースリーブが肌に張り付いて気持ちが悪いこと、このうえない。
縁側を渡っていると、ソウタ親子(野良猫)が庭先で日向ぼっこをしているのを見つけた。
夏希は裸足のまま庭へおりると、母猫ソウタに「おはよ」と言ってから子猫を撫でた。たとえ動物であろうとも挨拶なしに、おさわりだけするのはルール違反だと思っている。
ちなみにこの際、おさわり自体の違法性に関しては逡巡されない。
しばらく野良猫たちと戯れていると、庭の敷地内から「スパァン」という乾いた音が響き渡った。気のせいかとも思い耳を澄ませていると、やはりもう一度同じ破裂音が鳴った。
音に導かれるように夏希は歩き出した。
胸元には子猫の田中さんを抱きかかえている。
音の発信源は庭先にある大きな離れ屋だった。
裸足の砂をふりはらってから渡り廊下をひたひたと歩く。
離れ屋があるのは知っていた。引っ越してきた夜にも、渚が物憂げにこの建物を眺めていたのを覚えている。
離れ屋に近づくたびに「スパァン」という音も段々と大きくなっていった。
夏希は錠前の外された門戸を静かに開く。
するとそこには広い畳張りの空間が広がっていた。
扉が開かれると一際、音が大きくなる。
夏希の胸に抱かれていた田中さんは、びっくりして逃げ出してしまった。
呆気にとられて立ち尽くす夏希が見たものは、袴姿の稽古着をまとった長駆の男。
いつもより凛々しく。そして大きく見えた。
広々とした道場の真ん中にだたひとり、一心不乱に受け身を取っていた。
夏希はその姿に見とれている。
心地よい畳を弾く音に身を委ねて、魂まで遠くへさらっていかれるようだった。
渚にはいくつもの顔がある。
ホストのようにチャラついたちょっと危険な匂いのする輸入車販売のブローカーだったり、バイクを直しているときは、まるでおもちゃで遊んでいる子供のようだったり。
主夫だったり。
口うるさい母親のようだったり。
あるいは趣味を共有する無二の親友のようだったり――。
でもいまの渚を見るのは初めてだった。
額に汗する真剣な眼差しと、軽やかに躍動する恵まれた体躯。受け身ひとつをとっても、長年の修練が如実に現れている。
それはアスリートの動きではない。闘う者の身のこなし。
夏希は彼のことを美しいと感じた。
朝稽古の様子を見られていることに気づいた渚が動きを止める。畳を打つ乾いた音が、静まり返った道場のなかへと霧散してゆく。
開け放たれた扉の向こうから蝉の声がわっと押し寄せてきた。
刹那の幻想に身を委ねていた夏希の魂は、ようやく現世へと帰還する。
「よぉ。珍しく早いな」
そう笑う彼の顔は、夏希が知っているいつもの渚だった。
どこかホッとした気持ちになって、夏希は「おはよう」と返した。
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