第3話 花で落ちないヤツはいない

 フラワーショップ『ぱんだ』は渚が懇意にしている花屋である。

 職業柄、富裕層のご婦人を相手にすることも多く、その際に役立つのはいらん世辞よりも綺麗な花束だ。誕生日や記念日。ちょっとしたご機嫌伺いに顔を出すだけでも、花があるのとないのとでは先方からのあしらわれ方にも差が出るというもの。


 将を射んと欲すれば先ず馬から――。

 しかしこの場合、馬(車)を売るために将を落とそうというのだから言葉とは難しい。


 営業車として使っている旧いクワトロから降りると、渚は軽い足取りで歩き出した。

 胸元をはだけさせたドレスシャツにイタリア製のスーツ。

 どこぞのホストかクラブのオーナーのような出で立ちで向かうのは『ぱんだ』の店先だ。

 バケツを彩る切り花や、鉢植えの数々が文字通り華やかである。

 誰かの歌の文句ではないが、誇らしげにしゃんと胸を張っているかのようだ。


「あ。いらっしゃいませ」


 いつものように笑顔で迎えてくれるのは『ぱんだ』のスタッフである美山 優みやま ゆうだ。

 甘いルックスにエプロン姿の彼は、来店に気づくと一度作業の手を止めて、渚のそばへと駆け寄った。


「いつもありがとうございます。お仕事ですか?」

「ご機嫌伺いだよ。先月新車に乗り換えたお客さんの奥様が誕生日でね」

「へえ。日曜日なのに大変だ」

「ひとが休んでるときに働くのがサービス業の宿命さ」

「お互い様ですね」


 花でいったら六分咲き。

 優の爽やかな対応に渚も自然と笑みがこぼれる。無論、彼の目線はうら若き青年の腰つきやスレンダーな胸板だったりするのだが。


「奥様はお何歳くらいなんですか?」

「ん?」

「――や、だからお客さんの奥さん」

「あ、ああ~そうね。五十くらいかなっ」


 見とれていた。蜜をたたえたように潤む蠱惑的な唇に。

 たおやかな指先がなぞるガーベラの花弁を、渚はいつの間にか自分自身と重ねていた。


「じゃあちょっと落ち着いたのがいいですよね。夏だし青色入れたほうが涼しげかも」

「――任せるよ」


 心地よい時間が流れてゆく。

 自分のために誰かが花を選んでくれるというのはとても気持ちがいいものだ。それがたとえ客と店員という間柄であったとしても。


 渚はいま彼のうなじを見ている。

 男にしては長い髪を、無造作に後ろで括っていた。

 うっすらと産毛の混じった後れ毛がどうにも愛しい。こんな気持ち、誰にも分かってもらえないだろうなと思っていたとき、不意に夏希の顔が浮かんできた。


「そうだ。それとは別にもうひとつプレゼント用に何かを」

「何かというと?」

「今度、同居人が出来てね。まあお祝いじゃないけど」

「わあ。彼女さんですか?」

「いやぁ。そういうのじゃないけど……」


 彼の反応を伺ってみる。

 当たり前だがヤキモチなんかしてくれるはずもない。好意があるかも分からないうえ、自分たちは同性なのだから。

 益体もないことを考えてひとり鼻で笑う。渚の心に虚しい風が吹いた。


「ズボラなヤツなんだ。手間の掛からないのがいいな」

「だったらこれがいいですよ。カワイイし」


 そう言って優が持ってきたのは、ガラスボウルに入った多肉植物の寄せ植えだった。

 緑と赤紫のコントラストが美しく、見た目にもシンプルで確かに可愛らしい。


「じゃあそれをもらっていくよ。それと――」


 渚は足もとのバケツに入れられていた一輪のバラを手にとって優を見た。


「これを君に。いつもありがとう」


 他意はない――つもりだった。

 だが一瞬、返答に困ったような顔をした優を見てすぐさまバラをバケツへと戻す。


「冗談。冗談だよ」


 ハリウッド映画の主人公がするようなオーバーな仕草で笑い飛ばした。

 何度経験してもこの反応だけは辛い。


「あれ? くれないんですか。好きなんですよ、ぼく――」

「え――」

「バラの花」

「あ、ああ……」


 年甲斐もなくドキドキした。

 渚はもう一度バラの花を手にする。


「痛ッ」


 親指から滲む真っ赤な雫は、表面張力でぷくりと玉になって。

 まるで我が身から出た宝石のようだと、しばし幻想の世界へと渚の意識はさまよった。


 すると優は「大変だ」と口にしてエプロンのポケットから、絆創膏をとりだした。


「よくぼくもやるんですよねー」


 さも当然のように彼は、渚の親指へと唇をつけて赤い宝石を吸った。

 渚はただ呆然と、優のつむじを見下ろしている。

 こんなことがあっていいのか――。

 現実とも夢のなかともつかない感覚で、渚の頭はしびれている。呼吸さえも忘れて彼が絆創膏を巻いてくれる様子を凝視した。彼の体温で親指が包まれてゆく。

 どうやら夢ではないらしい。


「稗田さん?」

「は、はいっ」


 思わず声が裏返った。

 予想を遥かに上回った優の行動に、渚の心臓は破裂寸前である。


「あ、ごめんなさい。汚かったですよね。ちょっと手元にティッシュとかなくて」

「だ、大丈夫だよ。ありがとう――」

「本当ですか? 変なヤツだと思われなくて良かった」


 あっけらかんとそう言う彼の顔をまともに見られなかった。

 あれ?

 おかしいのは俺のほうですか?

 渚の自問自答は、かつてない迷宮へとハマり込んでいる。

 ポーッとなった頭で会計を済ませると、優はまたあの天使のような悪魔の笑顔で渚の心を煽ってくる。


「お買上げありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」


 来ます。

 めっちゃ来ます。


 平静を装いながらも、渚はそう心に固く誓ったのだった。

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