第2話 真剣な眼差しで
一夜明けて、寝不足に目を腫らした自分の顔を鏡にうつして渚はあくびをひとつした。
シェービングフォームを手に取り、日課のひげ剃りだ。
休日とはいえ、これがないと起きた気にならない。
寝ぼけ眼だった表情に泡が加わり、タレ目がちで日本人にして彫りの深い顔立ちも手伝って、瞬く間にサンタクロースのようになる。
しかし身体つきはまるでアスリートのそれだ。
適度に鍛え上げられた筋肉が、肌着を内側から押し上げている。
「あ、おはよー……」
栗色のショートヘアをひどい寝癖にした夏希が洗面所へとやってきた。
手にはお泊り用の歯ブラシセットを持っている。
あらためて並んだふたりの身長差はまるで大人と子供だ。
夏希に至ってはリアルに中学生と間違えられても不思議ではない。
「早めに身長止まっちゃったんだよねー」
とは昨晩の夏希だ。
妙に悔しそうだったことを渚は覚えている。
少し横にずれて洗面台の半分を彼女に譲ると、渚はT字のカミソリを肌に当てた。
滑らかな剃り心地に思わず目を細める。
「寝れた?」
一八〇センチの恵まれた体躯から、隣に立つちんくしゃのつむじに向けて渚が問うと「うー」と唸りながら歯ブラシを動かす夏希の声が聞こえる。
太めに残した笹の葉眉毛が鏡にうつる。すっぴんの彼女はやんちゃな少年のようだ。
「朝飯どうするよ」
「うーん」
「トーストでよけりゃすぐ焼ける」
「じゃあそれで」
カミングアウトも済んだ。
もはや数年連れ添った気安さである。
「あ。その洗顔あたしも使ってる~。借りていい?」
「どうぞ」
鏡の前に立てかけてあった洗顔フォームの容器と泡たてネットを手渡す頃には、渚の顔は出来上がっていた。さっぱりとしたその表情から、寝不足のサンタクロースは消えている。
「そういや昼からちょっと得意先回るから――な?」
自分から泊まっていけと言った手前、それまでに出て行けとはなかなか言いづらい。
察しの悪そうな彼女であるが、うがいをしながら「わがっが(分かった)」と応えたことに妙な安心を渚は覚えた。
「日曜なのに大変だね。お仕事何してんだっけ?」
「輸入車販売業を少々」
「おお~。ゴージャス~」
「そうでもないさ」
アフターシェーブローションを肌に叩き込みながら渚は、うんざりとした様子で鏡を見た。そこにうつる我が身の眉がハの字になっていることに気づいてため息も出る。
「突き抜けた金持ちなら相手するのも楽チンだが、ちょっと無理して身の丈にあわない高級車を欲しがる小金持ちが大半さ。こういうのが一番面倒くさい」
「な、なんだか恨み節ね」
「事実を言ったまでだ」
少し濡れた前髪を後ろに撫で付けて渚は自嘲する。
それが飯の種だと言い聞かせる――。
いつの間にか麻痺している自分に。大人になるとは考えることをやめることかと。
渚の意識がひとり遠い世界へと旅立っていると、夏希が唐突に話の腰を折った。
それはもうケブラドーラ・コン・ヒーロ(風車式背骨折り)くらいに。
「やっぱ広いね」
「あん?」
夏希が泡たてネットでもこもこ泡を作っていると、渚はヘアバンドもせずに洗顔をしようとする彼女を見かねて、その辺にあったバスタオルで寝癖だらけの栗色の髪を巻いてやった。
女性の髪に触れることなどいつ以来だろう――。
しかも嫌悪感を伴わないとなると、母親か親戚以外では初めての体験ではなかろうか。
「お屋敷」
「あ――ああ……」
ふと会話が続いていたことに気づいて渚の意識は鏡の前へと戻ってきた。
慣れてしまえばただの家だが自分が初めてこの屋敷に訪れたことを思い出せば、彼女の言わんとすることも理解出来る。とにかく部屋数が多くて無駄に入り組んでいるのだ。
この屋敷をこよなく愛していた故人の顔が目に浮かぶ。
曰く、お茶目ないたずらジジイであったそうな。
「ずっとひとりで住んでるの?」
「二年前からな。それまでは隣町でアパート暮らしだった」
「いいなー」
「手間が掛かるだけさ」
存外嫌そうでもなく渚がうそぶくと、鏡越しに彼の顔を見た夏希が急に押し黙った。
頭に巻いてもらったバスタオルで口元を隠し、何やら思案げである。
濡れ縁に面した洗面所は、戸を全開にすれば中庭から風が吹き抜け気持ちいい。
晴れ晴れとした初夏の贈り物だ。
垣根に植わる金柑の花がかすかに香る――。
「一緒に住んであげよっか」
「は?」
あまりに突拍子もないセリフに、思わずマヌケな声が出た。
しかし鏡にうつる夏希の目は真剣そのもので、渚としてもどう反応していいものやら困惑気味である。おいそれと茶化せるような雰囲気ではなかった。
お互いの秘密を告白しあった仲である。
ある意味では親よりも上位にいる理解者同士だ。
だが一方で昨日たまさか知り合った赤の他人であることも間違いではない。
彼女の人となりは昨晩で熟知した。竹を割ったような――という言葉はあるが、まさにそれである。ズボラで男勝りであけすけで。
ただ一点。お互いがひた隠しにしていた共通の事実が、彼らをより強く引きつける魅力となったことは言うまでもない。
「本気で言ってんの?」
渚は苦笑交じりに聞いてみた。すると夏希は驚くほど真面目な口調で――。
「アパート……更新するの忘れちゃってて……」
「帰れ」
このあと二時間ほど泣きつかれ、辟易した渚は渋々彼女の申し出を受諾したという。
まだ夏の盛りもこれからという頃の話である。
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