第4話 さよなら愛の巣

 日暮れ時。

 夏至も過ぎたとはいえ、午後十九時でもまだ明るいくらいだ。


 木造二階建て。築何年になるかも分からない安アパートの真ん前に、巨大なワンボックス車が停まっていた。真っ白いボディに輝くメッキパーツがよく映える。通り過ぎるガキンチョ共などは何事かと興味津々だ。


「これで最後か?」


 荷物を積み終わった渚が、両開きのリアハッチを閉じながら夏希へと問う。大きめのスーツケースを引きずって現れた彼女は「うん」と小さく返事をした。

 渚の乗ってきた車に対して、あらためて呆気にとられているらしい。


「どっから持ってくんのよ、こういう映画とかで銀行強盗が使ってるヤツ」

「ダッジ・ラムバン。ウチの在庫だよ。洗濯機とか冷蔵庫とか無いっていうから、これで来た。わざわざ他所からトラック借りるのも面倒だしな」

「そりゃどうもお手間さまで」

「いーえ」


 夏希は少しメランコリックな表情で昨日までの棲み家を眺めていた。

 渚の居ないところで泣いていたのかもしれない。目がちょっとだけ腫れている――。


「行けるか?」

「……うん」


 ふたりの乗り込んだラムバンは、沈みゆく夕陽に向かって走り出した。

 過ぎ去る景色に彼女は何を思うのか。

 まだ知り合って日の浅い渚に、それを知る術はない。


「しかしまあよく生活出来てたな」


 信号待ちの間に、渚は車内を振り返った。

 そこにあったのは主に女子プロレスのグッズと洋服、そして五キロのダンベルだけである。

 テレビもねえ、ラジオもねえ――ではないが、このご時世によく生きてられたものだ。


「ぜ~んぶ持ってかれちゃった」

「誰に?」

「前付き合ってた女」

「あぁ……」


 信号が青になる。

 渚は嫌な空気を振り払うようにしてアクセルペダルを踏んだ。

 無論、そんなことでは夏希の気持ちは収まらない。


「信じられる? ある日、帰ったら家に何もないのよ。テレビも冷蔵庫も、洗濯機もパンツも」

「パンツは別にして、それはヒドイな」

「それから連絡もつかないし……もうサイテー」

「別れた理由は?」


 夏希は口を尖らせ押し黙る。

 言いたくないことは聞かなくてもいい――。

 渚はそう言葉にせずに、そっとカーステレオのボリュームを上げた。掛かっていたのは二千年代の洋楽ヒットメドレーだ。世代的にストライクの渚は思わず鼻歌が口をついた。


「……何かいいことあった?」


 訝しげな表情で夏希が言った。

 それを目端に捉えた渚は「別に」と答える。


「嘘ばっか。あーコイツいいことあったんだ。ひとがこんなに悲しんでるのにっ」

「わ! よせ! 運転中だろうがっ」


 夏希は渚の肩に、二発三発とグーパンチを食らわせた。

 そしてシートの上で体育座りになり、膝の間に顔を埋める。分かりやすいほどの落ち込みように渚も言葉がない。


「とりあえず靴だけ脱いでくんない? シート痛むから」


 それが精一杯の軽口だった。


 同性愛。

 自分たちにとっては普通のことだ。たまたま好きなった相手が同性だった――そういうことでもない。どこまでもナチュラルで、どこまでもノーマルだ。

 それが分からないひとたちの気持ちのほうが、自分たちには分からない。

 だからいつまでたっても価値観は平行線のままだ。


 市民権を得るとか、歩み寄るとか。

 結局は異性愛者の価値観でしか世の中は動いていない。そんな世の中に生まれた彼らにとって社会は、常識の違う異世界に放り込まれたも同然なのである。

 ようやく見つけた運命の相手。

 ファンタジー小説の主人公なら添い遂げられても、現実は厳しいものだ。


「ほれ」


 渚の呼ぶ声に顔をあげると、夏希の目の前にはガラスボウルに入った多肉植物の姿があった。

 緑と薄い赤紫のコントラストが、涙で腫れ上がった瞳によく沁みる。


「やるよ」

「――ありがとう」


 手渡されたガラスボウルの丸みに何かを感じ取ったのか。

 ふさぎ込んでいた夏希の表情が、パッと明るくなったように渚には思えた。


「……馬鹿にされたんだ」

「あ?」

「女子プロ」

「それで喧嘩になったの?」

「うん……」


 あまりにも――あまりにもバカバカしい理由に思わず渚はこらえきれなくなる。さっきまでの深刻な表情は一体何だったんだと。


「笑わないでよっ」

「ぷっ。だってさ――」

「ああっまた笑った! だって八百長とか言われたんだよ。許せる訳ないじゃん! 好きなひとにさ、好きなものをさ……」

「――わかるよ。わかってるよ」


 渚の大きな手が、夏希の栗色の髪に触れた。

 とても小さい頭だった。あの日、屈強なレスラー相手に場外戦を挑もうとしたヤツと同一人物とは思えないほどに。

 痛いくらいに分かる彼女の気持ちに、グッと胸を締め付けられる。


「ズボラなヤツでも育てられるとさ」

「え?」

「そのなんちゃら植物。カワイイ花屋さんのお墨付き」

「花屋? あ! おまえその花屋と何かあったろ。言え! 洗いざらい吐け~!」

「わっぶ! 運転中だって言ってんだろうが!」


 また夜が来る。

 異世界で出会うのは何もヒーローとヒロインばかりではない。

 仲間と手を取り、共に闇へと立ち向かうのもお約束だ。

 生きづらい世の中。

 わざわざひとりでさまよう必要などない。

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