第41話 桃・百合・かぼちゃ

 桃――。

 バラ科モモ属の落葉小高木。また、その木がつける実の呼び名である。

 三月下旬から四月上旬頃に薄桃色の花をつけ、果実の収穫時期は七月から八月。

 中国においては仙木・仙果として尊ばれ、日本においても桃の節句の風習で親しみ深いフルーツである。

 そして球形で縦に割れているその形状から、しばしば人間のお尻にたとえられる――。


 真昼の女子会から帰った夏希は、いつものように扇風機の前に陣取ってリラックスモード全開である。

 小腹が空いたが夕飯前だからお菓子はダメだと、まるで子供のしつけのようなことを渚に言われてしまい「ならば」と思って台所から持ってきたのが、いま目の前にある『桃』だ。


 裏のお婆さんからもらったこの大きな桃を見つめていると、昼間スイーツカフェで見たシブちゃんのむっちりとしたお尻を思い出す。


 夏希はおもむろに桃を持ち上げ、頬ずりをした。ひとによっては産毛でかゆくなるそうだが、肌の強い彼女にとっては無問題である。

 トロンとした視線で見つめる桃をシブちゃんに見立てて口づけをする。

 それはもういやらしい舌使いで、割れ目の部分を執拗に愛撫した。


「はへぁん」


 吐息混じりに声が出る。

 思わず手が乳房へと伸びた――ところで、後頭部をしたたかに蹴りつけられる。


「気色の悪いことやってんじゃねえ!」

「イったいな! 蹴ることないじゃないの!」


 背後で仁王立ちをしている渚を見上げ、ジンジンとする頭をさすった。


「くだらないことやってないで、裏の婆さんとこにコレ持ってってくれ」

「なにコレ」

「かぼちゃの煮物。大分柔らかく煮たから、崩れてたらゴメンって言っといて」


 夏希は渚からタッパーに入ったかぼちゃの煮物を受け取った。

 透明な容器に透ける、深いオレンジ色が鮮やかだ。

 味を想像して口のなかで唾液があふれてくる。


「一緒に行かないの?」

「いま揚げ物してんだよ」

「なになに? 今日の夕飯なに?」

「エビフライ。はい、はよ行ってこい」

「はーい」


 というわけで裏のお婆さん宅である。

 玄関先に腰を下ろし、しばしお婆さんとのゆったりとした時間が流れた。


「あれまあ。かぼちゃかね。そんな気ぃ使わんでええのに」

「いいのいいの。アレは自分がやりたいだけだから」

「アレって若さまのことかね? この子はほんに口の悪い」

「あははは……」


 お婆さんの鋭いツッコミに乾いた笑いしか出なかった。

 頭を掻きつつ、しばし反省。


「で、どうするんだね」

「どうするって――なにが?」

「なにがぁって、結婚に決まっとるでしょう」

「はいぃぃぃ?」


 驚きのあまり大声になる。

 しかしながら老婆の眼差しには、寸毫の不純物も確認できなかった。

 婆ちゃんはマジである。


「せんのかね?」

「だ、だからぁ。するもしないも、元々そういう関係じゃないんだってばっ」

「ほうかね?」


 分かっているのか、いないのか。

 お婆さんはとりあえずの納得をしたようである。

 夏希はその顔を見て、ふと彼女には嘘はつきたくないなと思った――ゴクリと生唾を飲む。


「お婆ちゃん――口かたい?」

「なんだね、藪から棒に」

「あのね――」


 緊張で口のなかが乾いていった。空気が喉に貼り付いて呼吸が苦しい。

 渚のときとは訳が違う。しらふのカミングアウトなど、何年ぶりのことだろう。

 お婆さんが不思議そうな顔をしている。

 早く言わないと――。


「レズビアンって分かる?」

「同性愛のことかね」

「うん……」


 するとお婆さんは得心したようで「ほうかね、ほうかね」としきりに首を縦に揺すった。

 夏希は緊張で身を細める。内ももに挟んだ両手が、やたらと冷たかった。

 しばらく沈黙していたお婆さんだったが、優しくニコリと微笑むとそのしわだらけの手を夏希の太ももに乗せた。

 とても――温かかった。


「私んたちの時代は『シスター』っちゅうてね。綺麗でカッコイイお姉さん方は、それは人気がありましたよ。その辺の男のひとよりよっぽどね」

「お婆ちゃん……」


 許された――そう思った瞬間に涙がこぼれ出た。

 ポロポロと、ポロポロと。

 止めどなく流れ出る涙。くしゃくしゃになった夏希の顔を、お婆さんがそっと撫でる。


「私んたちの時代はね。どんだけ好きなひとがおっても、自由な結婚なんて出来んかったのよ。会ったこともないひとの家にお嫁にいって、姑にいびられながら朝から晩まで家事をして」

「そうなんだ……」

「女は子供を産んで一人前、家を守るのが当たり前――。でもいまはそんな時代じゃないから。女の幸せは自分で決めてええ時代になったのよ」


 こらえ切れず、夏希はお婆さんに泣きついた。

 小さくてしわだらけで弱々しいはずなのに、とても大きな力に包まれているかのようだった。

 お婆さんは夏希の背中をトントンと優しく叩く。

 夏希はこの気持ちを生涯忘れないだろう。

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