第23話 期間限定のヤツ
それは同僚の男性社員・
「ヒエダ警備保障? 稗田?」
キーボードを打つ指が止まった。
夏希は自分で声に発して、耳馴染みのあるそのワードに首を傾げる。
ミーティングの議題に上がるであろう関連企業をリストアップしているとき、その詳細をインターネットで検索していると優良なセキュリティ会社としてその名が出てきた。
この手の情報にうとい夏希は、丁度デスクの横を通り過ぎようとしていた
「吉岡~」
チョイチョイと手招きをして彼女を呼ぶ。
麗は「なによ」と面倒臭そうな顔をして夏希のもとへとやって来た。至近距離から見る彼女の髪は艷やかで、よく茹でて食べたいという表現があるがまさにそれである。
モデル体型の彼女のお腹が、椅子に座った夏希の目線の高さに来た。
ゴロンと甘えたい欲望を抑えて、パソコン画面へと指を向ける。
「このヒエダ警備なんちゃらって会社知ってる?」
「世の中に『なんちゃら』なんて名前の会社があったら、社長の人格を疑うわね」
「ごーめーんなさーいぃぃぃ。ヒエダ警備保障ですぅぅぅ」
「はじめからそう言いなさいよ」
「アナタにはウィットに富んだ会話を楽しもうというユーモアはないわけ?」
「仕事中です」
「うぅぅ」
スモール・パッケージ・ホールド(首固め)のように完璧に丸め込まれた夏希をよそに、麗は「どれどれ?」と言いながらパソコン画面を覗き込んだ。
夏希の肩口からひょいと顔を出し、ひっつめから乱れた髪を耳元へとかき上げる。
整い過ぎた顔立ちというのは、ただそれだけで暴力だ。
加えてこの匂い。
夏希は隠れて、クンカクンカしました。
「ヒエダ警備保障ったら警備会社の最大手じゃない。このビルもセキュリティもその会社よ」
麗はオフィスの天井の隅にある防犯カメラを指差した。
カメラのボディにはアルファベットの『H』を模した企業ロゴが入っている。ぶっちゃけ夏希は言われるまで、そこに防犯カメラがあることにすら気づいていなかった。
幾重の意味でも驚きである。
「知らなかった……」
「知らなかったってアンタ、稗田グループ傘下の関連企業ならいくつも取引してるでしょうに」
「そうなの?」
「お・ま・え・は! 何年ここでOLやってんのよ! 研修からやり直しなさい!」
「イテテテテッ……」
夏希はコメカミ辺りを顔の両側からゲンコツでぐりぐりと攻められ悶絶している。
まるでどこぞの園児かと見紛うばかりのお仕置きのされ方であるが、彼女はれっきとした社会人だ。デスクの上は雑然として散らかり、キャンディトイやガシャポンで埋め尽くされていようとも、それでもなお彼女は社会人なのである。
「でもどうしたのよ急に。まあ取引先に興味持つのはいいことだけど。今更だけどね」
「今更は余計よっ」
お仕置きをされたコメカミを揉みほぐしながら、夏希はあらためてパソコン画面を見る。
ヒエダ警備保障――インターネットの情報によれば稗田グループと呼ばれる大型企業グループの筆頭会社である。警備会社としては老舗ブランドであり、提携先の企業も多岐にわたる。
稗田という一族をグループの長にいただき、現当主の名前は
しかしながら系列会社のページをいくら追おうとも『稗田 渚』という名前はどこにも見当たらない。だが創始者の名は『稗田
白髪を後ろに撫で付けた西洋風の顔立ちは、どこか渚に似ている。
簡略化された社史のページに掲載されている咲良の写真を見て夏希はそう思った。
キリリとした目鼻立ちに燃え盛るように立った眉毛が印象的で、いくつのときの写真かは分からないが現代でも通用しそうなちょい悪のイケメンである。
「これが渚のお爺さん……なるほどお婆ちゃんが惚れるわけだ」
今朝方、ゴミ捨て場での老婆との談笑が思い出される。
在りし日の咲良老人と彼女の会話などを想像し、何だか満ち足りた気分になる。自然と頬もほころんでひとりニヤニヤしていると、背後から脳天にチョップを食らった。
麗である。
「おい! 話はもういいのかよ?」
「うぅ……ありがとうございました。助かりましたぁ」
半泣きで頭を擦っていると、ひょいと目の前に美しい手のひらが突き出される。
真っ直ぐな指、白い肌。白魚のようなというたとえもあるが、どっちかというとホワイトアスパラのほうが馴染みが深い。
とにかく艶めかしいその指先に、夏希も思わずため息が出る。
「はい」
「……はいってなに?」
「手数料。情報提供者には一定の報酬を支払うのが常識よ。アンタも社会人なら覚えときな」
「ええぇっ。そんなの研修でも教わってないよっ」
すると麗は夏希の肩にポンっと手を置いて静かに首を横に振った。
「世の中には研修で教わらないことのほうが多いものなのよ」
「なんかいいこと言った風なのがむかつきます」
「やかましい。黙ってなんか寄越しなさい。私だって暇じゃないんだから」
「ちぇー」
ペンギンのように口を尖らせた夏希は、デスクの一番下にある大きな引き出しを開けた。
するとそこにはポテトチップス、スナック菓子、チョコレート、のど飴などなど。溢れ出しそうなくらいのおやつでパンパンになっていた。
仕事用具のひとつとしてそこに収納されていないことから見ても、どうやら机上が雑然としているのはこのせいであるらしい。
「じゃあこれもらってくよ」
麗は引き出しから箱入りのチョコレートをせしめると、夏希の鼻先でシャカシャカと振った。
「ああっ。それは期間限定のヤツ……あとで食べようと思ってたのに……」
「それはお気の毒さま。大丈夫、代わりに堪能してあげるから」
「このドSおんな~」
「なんとでもおっしゃい。さ、仕事仕事~」
去りゆく同僚の背中は、いつにも増して大きく見えた。
図々しさではひとに負ける気はしないが、彼女だけは別格である。自分を曲げない強さは彼女の足元にも及ばない。
あの強さが自分にもあれば、世の中はもっと生きやすいものになるのではないか。
ポッカリと空いた引き出しのなかを眺めて、夏希はそんなことをぼんやりと思った。
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