第22話 早起きは三文の徳

 稗田邸への引っ越しも三日が過ぎて、夏希はようやく自力での出勤を果たした。


 お当番制となったゴミ捨て任務を完了し、裏のお婆ちゃんとの談笑に後ろ髪引かれながらも乗り込んだバス。時刻表通りであれば片道二十分の通勤時間である。

 あいにく座席はすでに埋まっていた。

 夏希は乗り口付近の吊り革に掴まり、しばしの舟漕ぎタイムである。


 背の小さい女性のあるあるだが、電車やバスなどの吊り革は決してリラックスできるようなものではない。身長によってはつま先立ちまでして、背筋をピーンと伸ばさねばならぬ始末だ。

 しかしながら元々、体幹のしっかりしている夏希にとってこの程度の運動は苦行にならない。

 学生の頃は『修行』と称してあえてつま先立ちになり、自重トレーニングに励んだものだ。


 まどろみの中で流れ行く街並みに、小学校の校舎を見つける。

 きっとお祭りのときにはあそこで盆踊りをするのかな――などと渚いわく気の早いことをぼんやり考えていた。


 バスに揺られること十分が経過。

 会社最寄りのバス停まであと三つというところで、夏希は覚醒した。乗り込んできた新規乗客のなかに想い人を見つけたからである。

 渋谷しぶたに ハル――シブちゃんだ。

 朝っぱらからあの愛くるしい体型を揺らしてバスに乗り込んでくる。彼女は乗り口付近に立っていた夏希にすぐ気づくと、笑顔で「おはようございます」と声を掛けてきた。


「なっちゃんがバス通勤なんて珍しいですね。びっくり」

「おはようっ。すごい偶然! 運命かもっ」

「同じ会社なんですから、そんな大袈裟な……」


 ころころとした上品な笑い方に、夏希は完全に目が覚めた。


「でも本当にびっくり。そういえばお引っ越しされたんでしたっけ?」

「そうなの~。前より遠くなっちゃったから、ちょっと早起きしなきゃいけなくてぇ」

「あらあら。でも早起きは三文の徳って言いますよ」

「いまそれを実感しています」

「はい?」


 キラキラとした瞳でシブちゃんを見つめる夏希だったが、その意図は彼女には全然伝わってはいないようだ。もし伝わったとしてこの気持ち、どうしたら分かってもらえるだろうか。


 ただこうやって隣にならぶだけでもいい――。

 それが夏希の恋だ。

 それ以上を求めるならば、相応の覚悟と対価が必要になる。

 

 オール・オア・ナッシング。

 すべてを得るか、それとも失うか。


 まだ夏希にはそんな覚悟はなかった――。


「じゃあこれからはいつも一緒に出社できますね」

「シブちゃん……」


 彼女の一言一句に眉尻が下がる。

 ずっとこんな関係が続けばいいのにと思わずにはいられなかった。

 一歩。あと一歩。まるで地雷原でも進んでいるようだ。身を滅ぼしてしまいかねないデッドラインが夏希には見えない。

 されど進まねば永遠に手に入れることが出来ない彼女との安息。

 夏希の人生はつねにこの繰り返しである。


 いっそひとなど愛さなければいいのに。そう思った時期も何度かある。

 でも。それでもなお、夏希は誰かを愛さずにはいられなかった。


「きゃっ」


 バスが急ブレーキを掛けた。前走車がマナー違反の割り込みをしたのだ。

 シブちゃんは小さな悲鳴をあげて夏希のほうへと倒れ込む。

 夏希は彼女のふくよかな肉体を、短い手足でしっかりと抱きしめた。

 化粧で服を汚しちゃいけないと顔をそむけて、頭で彼女のおっぱいを支える。背中にまわした指が脂肪へと沈み込んだ。

 クーラーの効き損なった夏のバス車内。軽く汗ばんだシブちゃんの香りは、夏希にとって魔法の秘薬である。

 トリップ寸前の彼女にシブちゃんは「ありがとう」と恥ずかしそうに言った。


「ゴメンね。重かったでしょ?」

「そんなことないよぉ。幸せの重さでした」

「え?」

「ややや、違くて。あたし体力には自信あるからっ」

「そういえばスポーツ万能なイメージ。なっちゃん、何かやってたんでしたっけ」

「身長伸ばしたくてずっとバスケ部だったよ。……結局チビのままだけど」

「なっちゃん可愛いです」


 今度は夏希の照れる番だった。

 片手をシブちゃんの腰にまわしたまま、再び吊り革へと掴まる。欲しかった身長は手に入らなかったが、悪いことばかりではないなと思った。

 いまなら冗談めかして言えるかな――。

 告白までは出来ないけれど、ひとつひとつ自分を知ってもらいたいから。


「シブちゃん、あたしね」

「はい?」

「女子プロレスラーになりたかったの。でも身体小さいから諦めちゃって」


 シブちゃんの反応が怖かった。目をパチクリとさせている。

 唐突過ぎた?

 いや、流れとしては自然だったはず。だったはず――。


 どんな言葉が返ってくるのかと、夏希は怖くて目を伏せた。

 でもシブちゃんはあっけらかんとした声で「わあ、すごい!」と。


「レスラー目指してるひと初めて見ました! なっちゃんも女子プロ好きなんですか?」

「『も』ってことはシブちゃんも?」

「はい。ダイナ・ジャパンの旗揚げ戦を母と観に行ってからファンになりました。そのとき小学生でしたけど」

「あ、そのDVD持ってる!」

「ほんとですかっ。こ、今度貸してくださいっ」


 渚くん――奇跡が起きました――。

 信じられない展開に興奮が止まらない。結局ふたりは会社に着くまでプロレス談義に花を咲かせていた。暗闇を進む夏希という船は、またひとつ新たな航路を見つけた。大海原の中にあって一見すると同じような景色かもしれない。

 でも、いまの彼女にとってそれは極彩色に輝いていた。


 早起きは三文の徳。風向きは少しずつ変わってゆく。

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