第21話 お当番
前日の雨がまるで嘘のように今日は朝から快晴である。
道路には水たまりひとつなく、澄み切った青空が夏希の頭上に広がっていた。
昨日の今頃といえば、ちょうど例の早朝プロレスが佳境を迎えていた時間帯である。
のちに『第一次納豆戦争』とか呼ばれるようになるこの戦いは、ふたりで家飲みするときなんかにチョイチョイ話題になったりするとかしないとか。
あたしはいつ何時、誰の挑戦でも受ける――とは夏希の言葉だが、その後、納豆が稗田邸の食卓に登場するには若干の時間を要した。
さて本日は週二回ある可燃ゴミの回収日である。
夏希にとっては当番制となって初めてのゴミ出しとなった。バスの来る時間を見計らい自治体指定のゴミ袋(四十五リットル)を持って家を出る。
面倒くさいとは思いつつも、そこはそれしがない『居候』の身である。『大家』の意向とあらばこれに従うより術はない。語呂の良さから『大家』と呼んではいるものの、実質あっちもただの店子であるらしい。
色々と複雑なワケがあるらしいが、あっちが言わないのではあれば取り立てて聞くつもりもないというのが夏希の主義である。
外は快晴。
ミュールのつま先では、塗り直した足爪がターコイズブルーにペカペカと輝いている。
加えて今日も朝ごはんが美味しかったとくれば、ただそれだけで気分がいい。
元気よく稗田邸の門を潜った夏希は、ゴミ置き場のある丁字路へと向かう。最寄りのバス停であるコンビニ前へと行く途中にあり、家を出て道沿いに真っ直ぐ歩けばすぐである。
丁字路につくとゴミ置き場にはひとりの老婆がいた。
カラス避けのネットをめくってゴミ袋を入れるのに、どうやら難儀しているらしい。
「あ、お婆ちゃ~ん!」
ブンブンと手を振りながら夏希が声を掛ける。
すると老婆は振り向いてくれたが、その表情には若干の狼狽があった。
夏希は自分の手にしているゴミ袋と一緒に、老婆のゴミ袋もネットのなかへと押し込んだ。
ゴミの山はすでにパンパンである。これを崩さずにゴミ袋を入れるのは、老人にとっては厄介な仕事である。
老婆は笑みを浮かべ夏希に「ありがとう」と謝辞を述べたが、その表情には未だ「コイツ誰やねん?」という警戒心が張り付いている。
それに気づいた夏希はあらためて挨拶をした。
「おはよう、お婆ちゃん。昨日はスイカありがとね。甘くてすっごい美味しかった!」
それでようやく得心したのか、老婆の顔が柔和になる。
「なんだい。稗田さんとこの子かい。今日はちゃんとしてるから見違えちまったよ」
「あははは」
彼女は昨日、渚の不在時に野菜やら果物やらをおすそ分けしに来てくれたそのひとだった。
帰宅寸前の雨に祟られた夏希はシャワーを浴びた直後で、濡れ髪にいつもの部屋着というあまりにもラフ――というかだらしない格好(しかもノーメイク)だったために、なるほど老婆には別人に見えたことだろう。
「稗田の若様にも気に入ってもらえたかねぇ」
「わかさま?」
「渚さんのことだがね。あんひとは稗田家の御曹司だでね、アンタもお付き合いしとるなら、もうちょっとお上品にせんと」
「や、そういうのじゃないんだけど――って、御曹司? 分家じゃないの?」
「なに言っとるの。あんひとは稗田グループのご当主のご長男だがね。
「グループ? さくら?」
「アンタ、なにも知らんと若様と付き合っとるの?」
「だから違うってば」
混乱する夏希をよそに老婆は丁字路にしつらえられた花壇へと腰を下ろした。
夏希はその隣に座ると、まだバスが来ていないことを確認する。丁字路とコンビニは目と鼻の先の距離にあるのだ。
「咲良さんというのは渚さんのお祖父様。二年前に亡くなられとるで、アンタが知らんでもおかしくないわねぇ」
「お爺さんっていうとお屋敷の持ち主だったひと? 咲良って名前なんだ。素敵ー」
「あのお屋敷は咲良さんが隠居されてから建てた終の棲家だでねぇ。おひとりで住むには広すぎてさみしいっちゅうて、よう近所の子供らを遊びにこさせとったわ」
「へえ~。変わったひとだとは言ってたけど、優しそうだね」
「変わったひとっちゅうか、不思議なひとだったねぇ。見た目はヨボヨボの爺さんやったけど、その辺の若いもんが束になって掛かっても勝てんかったでね」
「強っ!」
「天狗の生まれ変わりじゃ言うとったわ」
「面白~い」
「咲良さんはこの辺の守り神みたいなもんじゃったねぇ……」
加齢によってたるんだまぶたの隙間から、老婆はどこか遠くを見ていた。
その様子はむかしを懐かしむようでもあり、まるでおとぎ話でも語るかのようでもあった。曲がった腰は大樹の年輪そのものである。夏希はその背にそっと触れた。
自分もそれほど大きな身体ではないが、老婆はそれに輪をかけて小さい。
この小さな身体であの大きなスイカや美味しい野菜を育てているのかと思うと、頭が下がる思いだった。
「お婆さん。咲良お爺さんに惚れたんじゃないの~?」
「ほほほ。そうだわねぇ。いい男だったねぇ。五十年ばかり出会うのが遅かったわさ」
「もう恋はしないの?」
「え? この婆さんがかい?」
老婆は驚いて目を見開いた。たるんだまぶたの向こう側に、乙女の瞳が宿る。
それを見て夏希は確信する。女はいくつになっても心のどこかに少女が住んでいると。
「恋に年齢なんか関係ないわ。いつだって青春。そうでしょ?」
すると老婆は破顔した。
抜けた前歯が愛くるしい。
「まったく面白い子だよ」
「お婆ちゃんも素敵だわ。あの美味しいスイカが作れるんだもの。当然よね」
夏希は老婆にウィンクをした。
まだまだ談笑していたい気持ちはあったが、しばらくしてコンビニ前のバス停へと一台のバスが近づいているのに気がついた。
夏希は慌ててその場をあとにする。
「いっけない! もう行かなきゃ!」
「気をつけるんだよ。いってらっしゃい」
「は~い」
駆け出した夏希だったが、老婆に言い残したことがあったと思い出し振り返る。
「渚がいつもお野菜ありがとうって! 今度お礼するねって!」
それだけ言うと気が済んだのか、猛烈なダッシュでバス停へと走り去る。
老婆は微笑みを浮かべて彼女の背中を見送った。
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