第15話 勃たない男と濡れない女

 一度止みかけた雨は日暮れを前にもう一度その雨あしを強めた。

 家路へと行き交うひとの群れに傘の華が咲き乱れ、いつもは灰一色であるアスファルトの道端も今日は色とりどりである。


 仕事を終えた渚も、稗田邸へと帰ってきた。

 リモコンでガレージのシャッターを開けると、マイカーである軽四を滑り込ませる。

 雨天時の車の乗り降りほど億劫なものはない。

 渚は濡れずに車を降りるたびに、亡くなった祖父のセンスに小さな感謝をしていた。


 コンクリートの床が車から滴り落ちた雨を吸って、ジワジワと黒く変色してゆく。アメーバの増殖のようにも見えるその様子を横目にしつつ、渚はレストア中のモト・グッツィのフレームを優しく指でなぞった。


 ダメ出ししてやるよ――。


 ふと小此木老人の顔が浮かんで苦笑する。

 渚にとっては親も同然。いつまでたっても子供扱いである。


 渚はシャッターの施錠を済ませるとガレージをあとにした。

 外はまだ雨が振り続けている。しかしここまで来て傘を開くのも面倒だ。

 濡れるのを覚悟で中庭を突っ切り、玄関先まで足早に駆けてゆく。


 玄関を開けるとすでに夏希の靴が脱いであった。

 しおらしいことに上がりはなに畳まれたバスタオルが置いてある。彼女なりに気を利かせたつもりらしい。

 渚は素直にその好意を受けることにすると、その場で靴下まで脱いで足を拭いた。


「ただいまー。タオルありがとな……っておまえ何やってんの……」


 そのまま居間へ行くと、先に帰っていた夏希がいた。

 だがそのあまりの格好に渚は脱力感を覚えざるを得なかった。


 ダルダルになったノースリーブにホットパンツという、いつもの部屋着に加えてシャワーから出て濡れたままの髪を乾かすため扇風機の真正面に陣取り「あ゛~」と叫んでいる。

 まるで夏の小学生のような痴態を目の当たりして、思わず目を覆った。


「お゛ーか゛ーえ゛ーり゛ー」

「おかえりじゃねえわ。ちゃんとしろよ、いい歳した娘がみっともない」

「うるさいなぁ。お母さんか」

「俺は朝っぱらからノンケの同僚にセクハラするような娘を持った覚えはない」

「せ、セクハラじゃないもんっ」


 即答出来るということはある程度の自覚はあるということだが、したたか動揺した彼女は四つん這いになって渚へと食って掛かる。

 当然のことながらほっぽり出したままのおっぱいはノースリーブの胸元から丸見えだ。

 渚は迫りくる夏希の顔面にアイアンクローをかまして動きを封じた。


「牛みたいに乳放り出してんじゃねえよ!」

「誰が牛よ! モウっ」

「牛じゃねえか」

「あ」


 ベタなやりとりを堪能した渚は、手にしたバスタオルを彼女の頭へとかぶせた。

 当然、自分の足を拭いたことなどは伝えずにそのままワシャワシャと雑な手つきで髪の毛を乾かし始める。それはあたかもフラワーショップ『ぱんだ』での、優との睦み合いの再現だった。

 人知れず耳を赤くした渚は、何か違うことを考えようと必死である。


「――そういや意外に乳デカいのな」


 夏希の背後に回ってワシャワシャしている渚だったが、彼女の細い肩幅も相まっていわゆるところの『横乳』がノースリーブからはみ出していることに気がついた。

 美しい曲線をした乳房の稜線は、ゲイである渚をして綺麗だと思わしめる。


「うーん。身体が小さいからそう感じるんじゃない?」

「そんなもんかね」

「サイズで言ったら大したことないんだけどなー」

「ふーん」

「ちょっと揉んでみる?」


 何言ってんだコイツ――。


 表情の見えない彼女の言葉は、からかいともジョークともつかない。

 だが不思議と不快ではなかった。

 たとえば友人の家に遊びに行って「猫でも撫でるか?」と聞かれたような気軽さだ。そこに男女の機微はない。当然だ。彼と彼女の間には、永遠とも思える壁が続いている。

 しかし永久に交わらないものだと認識してしまえば、かえって親近感が湧くというもので。


「じゃあせっかくだから」

「よっしゃこい」


 夏希は男らしく脇をガバッとあげた。

 正面から彼女越しに吹き付ける扇風機が流れを変えて、濡れた渚のシャツを冷やしていく。

 彼はその対流に身を任せるように、両の手のひらで彼女の乳房を包み込んだ。


「ちょっ素チチかよっ」

「せっかくだから」

「――まあいいけど」


 いいんかい。

 心のなかでツッコミを入れながら渚は夏希の乳を揉む。

 扇風機でほどよく冷やされたお互いの体温が溶けて交わり、あたかも一体となったような感覚がする。ピタッと吸い付く肌の感触に、渚は奇妙な安心感を覚えた。

 小指に乳房の重みを感じ、薬指には柔らかさを感じる。

 中指と人差し指には弾力を覚え、親指はただ愛しむかのようにそっと乳房に乗せた。


 これが女性か――。


 触れることも求めることもなかった未知の感触がいま己のたなごころに宿っている。

 やがて熱を帯び、お互いの境界線がハッキリとしてくるとその実感はさらに色濃くなっていった。自分はいま女性のおっぱいを揉んでいるのだと。


「どや?」

「やわこい」

「なんか他に感想ないの?」

「――ないな。これで勃起するヤツの気が知れない。そっちは?」

「産婦人科で検診受けてるみたい。あ、先っちょ触っちゃダメよ。さすがに感じちゃうから」

「そんなオカマみたいな真似が出来るか!」

「アンタのオカマの基準はどこにあるのよ……」


 勃たない男と濡れない女がひとつ屋根の下。

 心は寄り添いながらも、やはりお互いの身体にはまったく興味がないことを再認識させてくれたいい体験だったと彼らは後に語る。

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