第14話 じじい
天気予報に反して午前中降り続けた雨は、正午にはすっかりやんでいた。
快晴とまではいかないものの、途切れた雲の隙間から陽光が差し込む程度には天気が回復している。青空と優に塗られた軟膏が目に染みる――。
渚はいま、馴染みのテスター屋に来ていた。
テスター屋とは「予備検査場」とも呼ばれ、陸運局で使用される実際の検査ライン――車両検査のための計測機器――と同じものを備えており、ユーザー車検などで実車を持ち込まなくてはならない場合に重宝する施設である。
各自治体の陸運局の近所には必ず数件はあるので、指定工場の資格を持っていない自動車整備の業者はみんな一度はお世話になっている。
制動力、スピードメーター、排気ガス濃度、ヘッドライトの光軸、サイドスリップ試験。
まるでファストフードのドライブスルーのように、車両を少しずつ進ませながら検査を受けていく。必要とあらば整備士がその場で調整をしてくれる。
これらは予備検査などと呼ばれ、実際の車検で一発合格をするための予行演習のようなもの。
陸運局では数ある検査項目のなかでひとつでもバツを食らうと再検査となる。
同日中に不備を修正できなければ別日にまた検査を受けに来なければならず、時間も手数料も余分に掛かるのだ。
それだけにテスター屋の重要性は計り知れないが、渚とこのテスター屋『
「ほっ。
一通りの予備検査を終えた渚がレジで会計を済ませていると、背後からしわがれた声が飛んできた。
振り返るとそこにはツナギ姿のひとりの老人が立っていた。背は低いがしゃんと立ち、よく陽に焼けた肌に人生という名のしわを刻んでいる。
「見栄っ張りの小金持ちが、維持費も考えないで分不相応な買い物に手を出した結果さ」
「違いねぇ! ひよっこが言うようになったじゃねえか。ナギっこ」
「そっちは相変わらず元気そうじゃない。なかなか引退しないって若社長が泣いてるぜ」
「けっ! そう簡単にくたばってたまっか」
カッカッカッ――まるでドラマの水戸黄門みたいに老人は笑った。
この老人の名は
かつて渚はこの店でアルバイトをしていた時期があり、クルマいじりにおいては彼の師匠のようなものだ。
老人は渚を事務所のなかへと招き入れるとコーヒーをすすめた。
浅くローストしたモカの香りで室内が満たされる。老人は愛用のパイプをぷかぷかとくゆらせ始めた。
「アレが死んでもう二年か。早いもんだ」
紫煙が立ち上り天井を霞ませる。
老人の瞳はここではない、どこか遠くへと焦点を結んでいるようだった。
「今頃は先に逝った
「あの世に行ってまであの爺さんに付き合わされるのは、婆ちゃんが気の毒だな」
「なにを言っとる! アレは華さんにベタ惚れじゃったし、華さんもアレが馬鹿をするのを喜んでおったわ。でなけりゃ余命宣告をされとるのに、日本一周の旅なんぞ馬鹿げたことはとてもとても」
「そのおかげで爺さん、実の息子に最後まで恨まれてたけどな」
「……まあなぁ」
渚はコーヒーを一口飲むと、壁に掛かる古めかしい写真へと目を向けた。
そこには若かりし頃の小此木老人と、あとふたり。サイドカー付きのモト・グッツィに乗っている仲睦まじい壮年のカップルが写っていた。
バイクに跨っている男性は、どことなく渚に雰囲気が似ている。
「まだ親父とは折り合いがつかんのか?」
「……つい最近も、汚いものでも見るかのように親不孝者と罵られたばかりだよ」
「相談役はなんと言っとるんじゃ。一応おまえの後見人じゃろうが」
「お互い頑固だからねぇ~。あそこも顔合わせるたびに喧嘩してんじゃない?」
「なんじゃ他人事みたいに」
「他人事だよ。俺は『分家』なんだから」
渚はそう言うともう一度コーヒーをすすった。
「そんなことよりさ。ぼちぼち組もうと思ってんだ。あの単車」
「V7をか? あれだけ渋っとったのに」
「ちょっと色々あってね」
すると老人は目を細めて「そうかい」とうなずいた。
「まあいいさ。組み上がったら一度見せに来いや。ダメ出ししてやるよ」
「ふん。出せるもんなら出してみろ。昔よりも完璧に仕上げてやる」
「へーん。ワシの仕事にかなうわけないもんねー」
このじじい――。
渚は衝動的に振り上げたくなった拳をグッとこらえた。
「それから――」
そして老人はまさしく祖父のような慈愛に満ちた表情で渚を見つめる。
「隣に乗せたくなったヤツも連れてこい」
「師匠――」
「言っとくがワシは男でも女でも驚かないぜ。でもダメ出しはしてやる」
「うるせえエロじじい」
ケケケと下品に笑う老人に向けて中指をおっ立てる。
それでもちょっと感動しかけた自分が妙におかしかった。
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