第18話 ネコタチの名前
愚かな人間ふたりから首尾よくスイカを掠め取った野良猫ママは、三匹の子猫にそれを与えると自らは周囲の警戒に徹した。
美味そうにスイカを食べる子猫たちのかたわらにすっくと立ち、気丈な眼差しで渚と夏希を眺めている。夜闇に小さな瞳が緑色に輝き、まるで蛍のようだった。
「ねえ。猫ってスイカ食べても大丈夫なの?」
「いいんじゃない? 水分も糖分も補給できるし。あ、でも皮は食べさせるなってどっかで聞いたな。頃合見て取り上げるか」
「え~かわいそう」
「腹壊すよかマシだろう」
一方で愚かな人間たちは、それでも野良猫の愛らしさにやられていた。
渚はうちわ片手に彼らの様子を眺め、夏希はその隣で剥がれてきたペディキュアを塗り直している。蚊やり豚のぶーやんは煙をくゆらせ、居間のテレビからはプロレスの実況が漏れ聞こえてきた。
のどかである。
しばらくして子猫の一匹がスイカに飽きたのか、家族の群れから離脱する。どうやら虫を追いかけているらしい。
それを見た夏希はペディキュアを塗る手を休めて微笑んだ。
「シロ~どこいくの~」
「シロ?」
「あの子の名前。あたしが付けたの。白いからシロ」
安直を通り越してすでに畏怖すら感じてしまう命名力である。
渚は虫を追いかけてじゃれている白い子猫を見やった。
「や、あれは田中さんだ」
「は?」
「だからあの子猫はシロじゃなくて田中さん。俺が付けた」
「……じゃあ、あの茶トラっぽい子は?」
夏希が指差したのはまだスイカにしゃぶりついている茶色い子猫である。見た目は一番、母猫に似ていた。すると渚はなぜか遠い目をして「木下さんだな……」と答える。
「じゃあ黒いのは?」
「ケンジロウ」
「……ママ猫は?」
「ソウタ」
「メス猫なのに?」
「……」
ふたりの間に微妙な空気が流れた。
夏希は自慢の大きな瞳をまるで線を引いたかのように細めると、呆れた様子で彼の顔を見た。それに対して渚のほうは、彼女の視線から逃れるようにしてそっぽを向く。
何か後ろめたい気持ちでもあるのか、うちわで顔を隠す徹底ぶりである。
「おまえ……フラれた男の名前か……」
渚は無言だった。
ただうちわの隙間からのぞいた耳たぶが、ひどく真っ赤だったことだけは確かである。
夏希は他人事ながらに頭を抱え、深いため息をついた。
「ちょっと! なんぼなんでも女々し過ぎるんじゃないの?」
「う、うるさいなっ。ちょっとセンチになっただけだろうがっ」
「なぁ~にがセンチよ。終わった男に未練タラタラじゃない。さっさと忘れなさいよね!」
「未練はねえよ。ねえけど……そういう思い出も必要だろう、俺たちみたいなのには」
「うぅ……思い当たる節があり過ぎて反論も出来ないわ……」
振り上げた拳を下ろす先がなくなる。いまの夏希がまさにそうだった。
お互い深いため息と共にがっくりと肩を落とした。
「ねえ」
「なに?」
「アンタ結局どっちなの?」
「どっちって――ああ。根っからのタチだよ」
「気づいたときから?」
「気づいたときから」
「ふーん」
「なんだよ」
「別にー」
夏希は口元にからかうでもなく笑みをたたえ、再びペディキュア作業に没頭し始めた。
渚は麦茶を一口。
次第に賑やかになる星の天蓋を眺めてうちわをあおいだ。
「そういうおまえはどうなんだよ」
「あたし? あたしはリバ」
「どっちもかよ。意外とエグいな」
「女は男と違って、入れる入れないにあんまこだわりないからねー」
「ゲイだってそうさ。必ずしも挿入にこだわってるわけじゃない。欲しいのはあくまでも気持ちのほうさ」
「分かるぅ。だよねー」
太い眉毛をハの字にして同意する夏希に、思わず渚も目尻を下げた。
基本的に相容れない種族だが、共感することも多々ある。それは紛れもない事実である。
「しかしなぁ……」
ふと渚がうちわで顔を隠した。
不思議がる夏希だったが、何を考えているのかは一目瞭然だった。
徐々に耳が真っ赤になってゆく。
「二十八年間バリタチでやってきたつもりだったけど――最近ちょっと揺らいできたなぁ」
すると夏希がペディキュアを放り出して、身を乗り出した。
その嬉々とした表情に渚は若干の戦慄を覚える。背中になにか冷たいものが走るのを感じた。
「花屋か! 花屋だろ?」
「う、うるさいな。そうだよっ」
「ねえねえ。名前なんていうの? どういうひと?」
「教えるか馬鹿!」
「いーじゃん。ケチー」
「そっちだって色目使ってるヤツの話なんかしたくないだろうがっ」
「ううん。シブちゃんっていうの。ねえねえ、だからそっちは?」
「近い近い! うわもう誰かコイツ引き取って!」
肌を密着させるほどに肉迫してくる夏希に、さしもの渚もタジタジである。
奇しくも居間から流れてくるプロレスのDVDも、ちょうどメイン試合のフォールが決まったところだった。
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