第6話 ただいまを言える相手

 渋滞に巻き込まれた朝八時半のダッジ・ラムバンは、目的地を前にして搭乗者をひとりその場へと降ろした。幸い、道路は広い駐車場と化している。

 左折車線。

 人の目は気になるものの、乗り降りは容易だ。この際マナーには目をつむってもらいたい。

 右側にある助手席から降りた夏希は歩道へと早足に移動すると、運転席に座っている渚へと声を掛けた。


「ありがとねー」

「帰りは?」

「さっき路線確認したから大丈夫」


 スマホ片手にウィンクをした夏希に、渚はタレ目がちな瞳をすがめる。


「どうしてそれを昨日のうちにやっとかないかね」

「うるさいなぁ」


 引っ越し初日――。

 いつものように夏希が起きると、すでに朝食の用意が出来ていた。

 小松菜の味噌汁にきんぴら。大根おろしが添えられただし巻き卵と、温かいごはん。

 扇風機の回っている居間に呼ばれて、夏希は「いただきます」と手を合わせた。


「朝飯を食わんヤツは信用しないことにしている」


 よく分からない主張をしている『大家』のことは一先ず置いといて、夏希は数週間ぶりにありついた人間らしい朝食に舌鼓を打っていた。

 否、ここ数日の話だけではない。

 社会人となり実家を出てから朝食に白飯を食べるなど、ほぼ皆無ではなかったか。

 今年二十三歳になる夏希は、短大を卒業してからの数年に思いを馳せた。


「美味しい! どこ’Sキッチンですか!」

「そりゃどうも。好き嫌いとかアレルギーがあるなら早めに言っとけよ」

「あーい」


 どうもこの『大家』は世話好きらしい。

 夏希はここ数日で彼の人となりを見てきたが、生活の端々にそれを感じる。

 思えば男性へのカミングアウトなど実父以来じゃなかろうか。


 ちと甘えすぎかな――。


 味噌汁をすする器の陰から渚の顔をちら見した。

 どちらかと言えば西洋風の顔立ちだがバタ臭いというほどでもない。スーツはよく似合うけどシャツのボタンは開け過ぎだと思う。

 全体的に清潔感があるのは好感が持てるが、その体格でコアラ柄のエプロンはどうだろう。


「なんだよ」

「別に」


 ごはんまで作ってもらって「別に」は無いな――。

 もうちょっと素直にならないと。

 夏希はご飯のおかわりを要求しながらそう思った。


 すると渚がおかわりをよそいながら、


「そうだおまえ、何時に家出るの。電車の乗り換えとか調べた?」

「え――」

「え、じゃねえし」


 それでもおかわりしたごはんは止められなかった。

 だし巻き超美味しい。


 で。


「い、いま何時っ?」

「七時半」

「どどどどどどど、どうしよっ。ここ住所どこっ」

「ゆっくり飯食ってたクセに、人並みに動揺はしてんのね」


 そんなこんなで「仕方がない」と渚に送ってもらった訳である。

 ハッキリ言って何もかもが彼の言う通り。反論の余地など一ミリもないのだが、渋滞にハマるダッジ・ラムバンに向かって全力のあっかんべーをした。


「渚の意地悪っ。でも送ってくれてありがとう」

「どっちだよ」


 ノロノロとちょっとずつ前進するラムバンに合わせて、夏希は歩道を歩く。

 ハンドルを握る渚は、大きな外車によく似合っていた。


「じゃあ行くわ。せっかくここまで来て遅刻してもアレだから」

「おう」

「またあとでね」

「ん」


 またあとでね――。

 そうか。お家に帰ったらアイツがいるんだ。


 そう思ったら何だか嬉しかった。

 あったかいごはん、古めかしい扇風機とちゃぶ台のお部屋。

 時代劇みたいな大きなお屋敷に、通い猫。

 

 それから――「ただいま」って言える相手。


 遠ざかる背中に確かに感じる誰かの存在。

 孤独(ひとり)じゃないってこんなに幸せなことなんだとあらためて感じた。

 脚が軽い。

 このまま走り続けていたいくらいだった。


 信号が変わる。

 車線が流れて渚のラムバンが夏希を追い越してゆく。

 すれ違いざまにプッと鳴らされたクラクションに振り向くと、ウィンドウ越しにあっかんべーをする彼の姿が見えた。


「またあとでね」


 誰に聞かせるでもなく、夏希は小さくつぶやいた。

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