第7話 おあずけ

 モノトーンチェックの事務服に着替えた夏希は、なんとか始業前にデスクへと滑り込む。

 禿頭の課長による今日の朝礼を寝ぼけ眼で聞き流すと、ようやく一息ついた。

 雑然とした机を前に、大きく胸を反らす。背骨がバキバキと音を立てた。


「おおっ。運動不足かしら。なまっちゃうなぁ」


 すると頭上から声がする。コツンとファイルで小突かれた。


「運動もいいけど仕事しなさい。佐々木君に資料作り頼まれてんでしょ?」

「あ、吉岡おはよー」


 吉岡 麗よしおか れいは夏希と同期入社の女性社員である。

 すらっと背が高く小顔のうえに脚も長い。ロングの黒髪を後ろでひっつめにしており、アンダーリムの眼鏡を掛けている。

 その名の通りの麗人だが、性格はちょっとキツめだ。


「おはよーじゃないわよ。ったく、妙にすっきりした顔しちゃってるけどルームシェアの相方に逃げられた件はどうなったのさ」

「あーアレね。まあ色々とあって引っ越すことになって――」

「引っ越し? ちょっと待って聞いてないし」

「だって言ってないし」

「言えよバカ。そこそこ大事なことでしょうが」

「うー。ちょっとワケありでさー」

「ワケありぃ?」


 近い。すごく近い。

 美人の顔というのは怒っても綺麗である。器用に片眉だけを釣り上げた彼女の表情は、まるでハリウッド女優のそれだ。

 でも彼女は夏希のタイプとはちょっと違う。

 たとえ本気で迫られても正気は保っていられる――はずである。


「ま、まあ落ち着いたら話すからさ……」


 やばい。超キレイ。いい匂い。抱きしめられたい。

 鼻息が荒くなる。

 ノンケ特有の無防備さに思わず心の声が漏れそう――そんなときだった。


「大島さーん。ちょっといいかな」


 ふたりの蜜月を引き裂くように、ひとりの男性社員の声が飛んできた。

 半袖シャツにノーネクタイというクールビズの申し子のような出で立ち。健康的な褐色の肌に鍛えられた前腕が印象的である。

 佐々木 千明ささき ちあき。夏希と麗の二年先輩にあたる同僚だ。スポーツマンタイプで頼り甲斐があり、誰とでもフランクに接することから、麗には「君付け」で呼ばれる始末である。

 根っからのコミュ力お化けで、夏希などからすれば異世界の住人だ。


「あ、ゴメンナサイ。資料まだです……」


 無意識に距離を取ろうとした夏希とは対照的に、佐々木はデスクに手をついて身体を寄せてきた。やや男性的なパーソナルスペースを持つ夏希は心のなかで舌打ちをする。


 近い……すごく近い。

 やばい。超ウザイ。香水とかキモいんじゃコラ。殴りたい。むしろ投げたい。

 ジャパニーズオーシャン・サイクロン(日本海式竜巻原爆固め)で息の根を止めてやる。


 特別に潔癖というわけでもないが、心を許していない人間にこういうことをされるのが夏希はとても嫌いだった。


 そんな彼女の胸の内を知る由もない佐々木は、軽やかな笑顔で「いやいや」とかぶりを振る。


「資料は週末までに間に合わせてくれればいいから、よろしく頼むよ」

「え……っと、あと何かありましたっけ?」

「いつも頼み事ばかりで申し訳ないから、今日メシでもどうかなと思って」

「は?」


 なんであたしがコイツなんかとごはんを食べなければいけないのだろう。

 反射的にそう思ってしまい、顔に出ていないかと急に心配になった。

 すると麗が、高身長を武器にズイッと佐々木に詰め寄って。


「それなら当然、私も行く権利あるわよねぇ。佐々木君」


 神がかり的なタイミングで助け舟を出してくれた。

 佐々木は「参ったなぁ」と頭を掻きながらも、どこか嬉しそうだ。


「じゃあこっちも若いの二、三人用意するからさ。そっちも女の子都合つけてよ」

「いいわよ。飲みまくってやる」

「給料日前だぜ。勘弁してよ~。ねえ大島さん?」

「え? ああ……うん。そうっすね。あたしもお財布空っぽです」

「良かったじゃない。一食分浮いて」

「あたしも行くのっ?」

「当たり前でしょ。アンタが誘われたんだから」

「それじゃあまた仕事終わりに。大島さん、美味しいとこ連れてくから」

「は、ハァ」


 爽やかを絵に描いたように佐々木はオフィスを出て行った。

 一方、夏希といえば、またしても麗からコツンとファイルアタックを食らう。


「なによアレ」

「アレってなによ」

「佐々木君、アンタに気があるのモロバレでしょうが」

「……アレってやっぱりそういうことなの?」

「それ以外のなにがあるってのよ」

「うっざ……」


 さっきまで我慢していた分、ここぞとばかりに露骨な態度が出た。

 眉間にはマリアナ海溝よりも深い縦ジワを刻んでいる。

 それを見咎めた麗は、スレンダーな胸元で横柄に腕を組んで深いため息をつく。

 呆れ果てたといった表情である。


「なにが気に入らないのよ。優良物件じゃない」

「吉岡、ああいうのが好きなの?」

「嫌いじゃないよ。女のあしらい方も上手だし偉ぶらないし。まあ趣味はイマイチだけど」

「あたし見て言うのヤメてよ」

「冗談よ。アンタは最高の女だわ。だから諦めて飲み会のダシになりなさい」

「うぅヤメろぉぉぉ」


 頭ごと抱きつかれて視界を遮られる。

 暗い。いい匂い。暗い。柔らかい。やめて。やめないで。

 交差する想いに正直疲れた。


「ということでよろしく。私、トイレ行くけどアンタは?」

「あー。資料作らなきゃいけないからいい。代わりに行っといて」

「オッケー分かった」


 遠ざかる麗の後ろ姿は、やっぱりモデルのように様になっていて。

 ストレスの掛かるやりとりも相まって、その背中に向けて思わずため息が出る。


 どうしてこうなった――。


「ごはんかぁ」


 ふと今朝食べた渚の手料理を思い出し、なぜか目頭が熱くなった。

 暗転したままのパソコン画面には、ハの字になった眉毛の自分がいる。


 しょうがない――ここは麗の顔を立ててやるか。


 スマホを取り出し、渚へとメッセージを送る。


『今朝はありがとね。助かりました。今日会社の子たちとごはん行きます。飲んで帰ると思いますので遅くなります。色々とゴメンナサイ。夏希』


 しゅおんっというサウンドエフェクトと同時にメッセージが送信される。

 夏希はスマホを握りしめたまま天井を仰いだ。


「あーあ。今日の晩御飯なんだったのかなぁ……」


 ポツリと出た自分の独り言に、何だかものすごく悲しい気持ちになった。

 しばらくして手元にブブブッと振動を感じ下を向くと、待ち受け画面には新着一件の文字。

 夏希は慌ててスワイプした。


『了解。飲みすぎてボロ出すんじゃねーぞー。ちなみにアジの干物をもらったので明日の朝食はそれになります。渚』


 なぜだか自然と口元がゆるんだ。

 暗転したままのパソコン画面には、今度は笑いをこらえてへの字口になっている自分がいた。


 がんばれるかも――。


 そんな気がしてもう一度メッセージを送ってみた。


『お味噌汁の具は? 夏希』


 ブブブッ――。


『大根とお揚げさんです。渚』


 夏希の口の中は、すでに明日の朝食でいっぱいだった。

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