おまけ其ノ五 心地よい距離感
祭り囃子が聞こえる。
家々の軒には町内会の提灯が吊られ、いつもの雰囲気とは一線を画している。
山車引く歓声に近所の子供たちも大はしゃぎだ。
渚は浴衣姿で縁側に座り、蚊やり豚のぶーやんをお供に真昼のビールを嗜んでいる。
枝豆と分厚く切ったハムを肴に、遠く聞こえる夏の鼓動を感じていた。
「ぬぉー! ふぬぅー!」
感じていた。
「とうりゃー! あちょー!」
夏の鼓動を――。
「これでもかー! うおおおお!」
夏の……夏希の叫び声。
たまりかねた渚は、縁側を小走りに彼女の部屋へと向かう。
かつての屋敷の主・
「やかましい! これじゃ情緒もへったくれもねえ……って、何やってんだおまえ」
「み、見れば分かるでしょっ」
「見て分かんねーから聞いてんだよ」
そこには半裸の状態で床に寝っ転がり、あまつさえ帯や紐で全身がこんがらがったひとりの女がいた。白地に朝顔の柄が美しい、綺麗な浴衣をはだけさせて。
まさに艶姿。
だが彼女の前にいる男は、その艶が通用するような相手ではなかった。
垣根の向こうからひとの行き交う声が聞こえ、渚は慌てて部屋の障子戸をピシャリと閉める。
そしておもむろに夏希の戒めを解いてやりつつ、大きなため息をついた。
「どうやったら浴衣の着付けで、ひとり緊縛プレイになるんだよ」
「う、うるさいわねっ。勢い余ったのよ!」
「ったく。なにがネット見ながら自分で出来るだ。これじゃあ婆さんの浴衣も浮かばれねえよ」
「うぅ……申し訳ない……」
ふたりの浴衣はそれぞれ祖父・咲良、祖母・華が生前着ていたものである。
前々から祭りを楽しみにしていた夏希のために、せっかくだからと渚が用意したのだ。
着せてやろうか?
そう渚が気を回してやると、夏希は自信ありげに「大丈夫!」と豪語したのである。
しかし案の定、この結果だ。
「ほれ。一回全部脱げ」
「ええ~」
「そんなフリフリの下着で浴衣なんか着るもんじゃねえんだよ。スポブラとスパッツにしろってあれほど言ったろうが!」
「面倒くさいなぁ……」
口を尖らせてしぶしぶ着替え始める夏希をよそに、渚は彼女がしわしわにした祖母の浴衣に手アイロンを掛ける。慈しむようにそっと優しく。
傍らで年頃の女性がEカップはあるだろう、たわわなバストを放り出していても安定の無関心である。
「出来たよー」
ブラを替え、スパッツを履いた夏希が渚に声を掛ける。その出で立ちはまるで、どこぞの結果にコミットするボディメイク・ジムのようだ。
近頃の運動不足がたたり、腰回りのお肉が若干スパッツに乗り上げている。
「んじゃ背中こっちに向けて。胸の下にタオル巻くから」
「なんで?」
「着物は寸胴のほうが格好良く見えるの。おまえみたいに無駄にデカイ胸は邪魔なんです」
「無駄とか言うな! 大体なんでそんなに詳しいのよ! 男のくせに!」
「それを言うなら、そっちこそ女のくせに浴衣の着付けくらいひとりでやれよ」
「偏見だ!」
「おまえが言うな!」
無駄にデカイと称される夏希のおっぱいの下に、渚はたたんだタオルを巻く。さらにその上かた紐で縛ると、彼女のくびれは若干緩やかなものになった。
「ねえねえ。もうちょっと緩くならない?」
「なんで?」
「出店グルメいっぱい食べたい」
「子供かっ」
ようやく浴衣に袖を通した夏希は、どこか嬉しそうだった。
ほんのり紅潮した頬が柔らかにほころぶ。
「丈合わせるからちょっと腰のあたりの布摘んどきなさい」
「こう?」
「くるぶしに掛かるくらいまで上げて……っと、よし」
渚は夏希の正面にまわると、襟を持ってたるみをなくす。
そして左右のバランスを見ながら浴衣を彼女の身体へと巻いていった。
お互いの息が掛かるほどの距離。
体温さえ伝わる密着度である。
だがなにも起きない。起きようがない。それがふたりの関係性――。
「あれ? 女って右前でいいんだっけか?」
夏希から見て右側。つまり渚の左手にある襟が内側に来ると、彼女は不思議そうに言った。
「着物は男女関係なく右前でいいんだよ」
「ふーん。やっぱり詳しいね」
「おふくろが着付けの先生なんだよ」
「ああそれで。あ、じゃあ
稗田 早苗――渚の七歳違いの実弟である。
つい最近、夏希とは強烈な初対面を果たしたばかりだ。
彼の装いは年齢に似合わず、袴羽織。一見すると新進気鋭の将棋指しのようにも見える。
「あれはオジキの影響だよ」
「なるほど、そっちか」
渚がオジキと呼ぶ人物、稗田
いま夏希がこの屋敷で正式に住めるようになったのも、彼の威光があったればこそ。
彼女からすれば足を向けて寝られない人物のひとりである――。
「柊お爺ちゃん。また来ないかなー。今度こそ投げ勝ってやる」
――が、実情はおもにスパーリングパートナーとしての尊敬であった。
「よし。こんなもんか。一回鏡の前に立って」
「はーい」
ふたりは姿見の前へと立った。
すると渚は、夏希の背後から身八ツ口(着物の脇下にある穴)に手を突っ込み、身頃のうちをまさぐりはじめる。
「やんっ」
「気持ち悪い声を出すな」
「だってしょうがないじゃない――ちょ、お腹のお肉つままないでよっ」
「おはしょり作んだからじっとしてなって」
「やーん」
ともすれば官能的なシチュエーションである。
夏希は完全にその身を渚へと委ねている。
だがしかしそれはお互いが交わらないという絶対的な自信に裏付けられた、ある種奇妙な連帯感からくるものなのだ。
ふたりはこれからも寄り添いながらも交わらない。
それが心地よいのだ。
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