おまけ其ノニ すき焼き事変

 夕飯とは、その日一日を頑張った者へのご褒美だ。

 本来ならもっと健やかで、満ち足りた気持ちで過ごして然るべきだと渚は信じている。

 なのにこのふたりときたら――。


 仕事を終えた渚がいつものようにガレージからダイレクトに邸内へ入ると、何やら家の中から不穏な空気が流れてくる。

 ぎゃーだの、うおおーだのと騒がしいのだ。


 そこはかとなく感じるデジャヴに頭を抱えつつも、やはり無視する訳にもいかない。

 仕方なく仏間へと足を運ぶと案の定、夏希が何者かと格闘している。

 しかもよりによって腕ひしぎ逆十字とはまたエゲツない技を――。


 そこではたと気づく。

 相手が大叔父の稗田 柊ではないのだ。

 もっと若く、そして夏希ほどではないにせよ男性としては身体の小さな部類である。

 その顔には見覚えがあった。

 何のことはない、血を分けた実の弟である。


 七歳年下の『稗田グループ』の次期当主――。


「……何やってんだ、おまえら」


 呆れ果て過ぎて二の句が告げず、そのままふたりを置いて台所へと所在を移した。

 時間も時間である。

 弟の稗田 早苗には「まあ飯でも食ってけ」とだけ言い残して。


 何度でも言うが、飯は美味そうに食え。

 それが料理をした者への最低限の礼儀である――。

 なのにコイツらはぁぁぁ。


 丸いちゃぶ台の端と端。渚を挟んで真横同士にふたりは座っている。

 双方、お互いを見ることもなく、ただお茶碗と箸を握りしめて黙々と飯を食っている。


「なんでピリピリしてんだよ! もっと美味そうに食えよ! 松坂牛だぞ、松坂牛!」


 例によってお客さんからの貰い物だが、今日は松阪牛のすき焼きである。

 稗田家は東海地方にルーツがあるため味付けに割り下は使わない。

 大量の砂糖と醤油をこれでもかとぶっ込み、豪快に煮る。

 ぶっちゃけ贅沢な霜降り肉が台無しとの声もあるが、土着文化に根ざしたソウルフードを前にしてそんな細かいことはお構いなしだ。


「兄さん。そのオンナの肩持つんですか? ちょっと変わりましたね」

「いや肩持つとかそんなんじゃなくてさ……」

「なによ! やっぱり同居人より身内を贔屓すんの? このブラコン!」

「な! アンタ、兄さんに対してそんな口の利き方――」


 いい加減、頭に来た渚は、自分の両隣(ちなみに夏希が右隣)に座っているふたりの首根っこを掴んで押さえ込んだ。

 普段は優しげなタレ目の彼が、眉間にシワを寄せている。


「……飯をぉ……食えぇ……」


 低くかすれた声でもってふたりを威圧すると、夏希も早苗も素直に「は、はいっ」と険悪そのものだった態度をあらためた。


 溶いた卵に肉をくぐらせ、白飯に一度バウンドさせる。

 それがすき焼きのジャスティスだ――とでも言わんばかりに、夏希は豪快にかっこんだ。


「んー! 美味しい~!」

「ホントだ! さすが兄さんの手料理だ!」

「ふっふっふ。そうだろう、そうだろう」


 やっといつもの夏希に戻ったと、渚も頬をほころばせた。そして早苗も、彼のよく知る純朴な自分の弟になった。


 三者三様に舌鼓を打っていると、しばらくして渚の目の前に小さな手のひらが差し出された。

 夏希である。

 彼女は渚を挟んだ反対側にいる早苗に対して「はい」と言った。


「……な、なんですか?」

「仲直りだよぉ。さっきは泥棒と勘違いして悪かったってこと」


 憮然とした表情ではあるが、一応反省はしているらしい。

 しかも大叔父・柊のときと合わせるとすでに二度目だ。犬でもまだ覚えがいい。

 一方、早苗はきょとん顔だ。

 茶碗を手に動きが停止している。

 無理もない。彼の人生では出会わなかった人種であろうから。


「ほらぁ。握手ぅ」

「……ほんとに泥棒だと思ったんですか?」

「当然よ。あたしがこの家の『居候』でいる限り、怪しいヤツはみんな叩き潰す!」


 そのときの早苗の表情といったら。 


「早苗。信じられないと思うが、コイツはマジなんだ。許してやってくれ」

「兄さん……。分かりました。ここらで手を打ちましょう」


 渚の目の前でふたりの手が結ばれる。

 その様子を眺めている渚の表情は、まるで孫を愛でる老人のそれだった。


「稗田――早苗です」

「大島 夏希。仲良くやっていけそう……かな?」

「それはあなたの、兄さんへの態度次第じゃないですかね」

「うわっ。やっぱりただのブラコンだ!」

「な、下品な女め!」

「アンタこそ女顔のクセに、似合わないホストみたいな髪型して。いい歳こいて兄貴の真似?」

「なんだとー! やっぱり仲良くなんか出来るかー!」

「やんのかコラぁ! うおおおおお!」


 ついに早苗の地が出てきた――彼の兄はそう思った。

 渚の目の前にあったふたつのたなごころは、お互いを握りつぶさんとする拳へと変貌した。

 キリキリとまるで万力のように、渾身の力でもって結ばれていく。

 あまりの惨状に顔を覆った渚。

 胸中ではこんなことを考えていた。


 この子たち、なにしてんのー! 馬鹿なのー!


 渚は夏希と出会ったとき、妙な懐かしさを覚えた。

 そして自分とどこか似たところがあると。

 しかしそれはよく考えてみると、この弟の面影を彼女に見ていたのではなかったか。

 まるで兄弟が増えたようだと思っていた――。


 次第に冷めてゆくすき焼きの表面には、うっすらと牛脂の膜が張っていく。

 庭先ではいつものように、野良猫親子が騒々しい稗田邸を眺めていた。彼らにしてみれば、あまり普段と大差のない日常の光景である。

 これは『第二次納豆戦争』が繰り広げられる、ちょっと前のお話だ。

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