おまけ其ノ三 ヒマワリの頃に咲くサクラ
のちに『すき焼き事変』と呼ばれる稗田 早苗の来訪による一連の騒動は、一先ずの決着を見た。こうすると何やら物々しい感じだが、早い話が夕飯を食べたら帰ったのである。
「泊まっていけばいいのに」
そう言ったのは意外にも夏希であった。
玄関先ですでに草履を履いていた早苗は、呆れ顔で彼女に言う。
「あなたが言うセリフじゃないでしょう、まったく……」
すると夏希は、悪びれもせずに「たしかに!」と返した。
夕飯時の握力勝負に始まり、大盛りご飯の早食い、腕相撲、果てはどちらがソウタ親子になつかれるか競争へと発展したふたりの無益な戦いは五分と五分。まさに実力伯仲といった様相を呈していた。
しかし不思議なもので、勝負を重ねるたびに夏希と早苗は徐々にお互いを理解していった。
険悪そのものだったムードも、子猫たちと戯れるころには笑顔ではしゃいでいたのだ。
考えてみれば歳も背格好も近い。
そしてなりより「渚」というフィルターを通して、お互いに何かを感じ入ったようである。
となると存外、別れはさびしかったりするもので――。
「またおいでよね」
「だからあなたが言うことでは……また来ます。兄さんも元気で」
「おう。おふくろによろしくな。あと……一応、親父殿にも」
「はい」
早苗は笑顔で稗田邸をあとにした。
夏希の見送るその背中は、やはり『稗田グループ』の次期当主という重みに耐えかねているようだった。不安で不安でたまらず――今日、渚に会いに来たのだろう。
彼にとって兄が女性と暮らし始めたなんて話は、寝耳に水だったろうから。
もしかすると肩の荷がおりるかもしれない。
そんな一縷の望みを期待して。
彼もまた渚が貫き通した「自分」によって、人生を捻じ曲げられた当事者のひとりである。
とても他人事とは思えず、夏希の胸に小さな棘がちくりと刺さった。
「ふぅ……」
早苗を見送った夏希は、自室にてようやくいつもの部屋着に着替えた。
いくら仲良くなろうとも男性に対して、無駄に肌を見せつける気にはなれない。
では渚はどうなのか。
彼は自分の肉体に対して欲情しない。どんな状況でも男女ではなく「ただの人間」同士でいられるという関係は、これに勝る信頼などあるだろうか。
身体を一切締め付けないダラダラファッションに身を包んだ夏希は、そのまま万年床へと寝そべった。普段寝ている向きとは逆に、猫脚の文机に頭を向けて。
するといつもは目にすることない文机の裏側を覗き込む格好となった。
「――なんじゃコレ?」
天板の真裏。
それは意識して覗き込もうとしなければ決して見つからないだろう場所にあった。
年代物の調度品だというのに、無造作を通り越して明らかにその辺にあっただろうガムテープが適当に貼り付けられていた。
経年劣化でネチャネチャになったガムテープを引っぺがすと、そこにはUSBメモリが。
不審に思いながらも夏希は、机上のノートパソコンにそのUSBメモリを差し込んでみた。これはすべての家財道具を元カノに持って行かれた夏希を見かねて、渚がくれたお古である。
すると――。
「な、渚ぁ!」
ノートパソコンを抱え、慌てて自室を出た夏希は『大家』を探した。
すると彼はまだ台所におり愛用のコアラ柄のエプロンを着けて、今日のすき焼きの後片付けをしていたのだった。
「何だよ騒々しい。あとにしろ、あとに」
「そ、それどころじゃないんだって!」
「後片付けのどこが、それどころじゃないんだよ! すぐに洗わないと鍋に牛脂がなあ!」
「コレ見ろ馬鹿ぁ!」
手にしたノートパソコンの画面を渚に見せつける。
そこにはUSBメモリに入っていた動画データが再生されていた。
一時停止されてはいるが、そこに映っていたのは誰あろう。
「じ、爺さんっ?」
「そそそそそそ、そうだよね? コレ、
「あ、ああ……だけど何だってこんな……」
「分かんない! 分かんないけど、あたしの部屋……っていうか咲良さんの机に隠してあった」
「と、とにかく見よう――」
ふたりは居間へと所在を移してちゃぶ台のうえにノートパソコンを置いた。
そしてお互いを落ち着かせるようにして、ゆっくりと動画プレイヤーの再生をクリックする。
「あーあー。もう映ってんのかなコレ? まあいいや。ゴホンッ!」
画面のなかで在りし日の稗田 咲良がしゃべり始めた。
渚の目が心なしか潤んでいるような気がする。写真は毎日目にしているが、動く咲良を目にするのは夏希にとってはこれが初めてである。すごく不思議な感じがした。
「コレを誰かが見てるということは、すでにワシはこの世におらんことかと思う」
撮影場所はいま夏希が使っている和室だろうか。ふすまが開け放たれ、中庭をバックに咲良はそう口にした。これには夏希も目頭がアツくなる。
「なんつってな! 一回言ってみたかったんだよね、このセリフ!」
ふたりは画面を前にしてズッコケた。
「まあなんじゃ。どうせコレを見とるのは渚くらいのもんじゃろう。もし違う誰かに見つかってしもうたのなら、ぜひあやつに伝えてくれ――」
画面を通して咲良は渚に語りかける。とても優しく、そしてとても力強く。
「まっすぐに生きよ。ほかの誰かに何を言われようがな。ワシもそうやって生きてきた。家のことなど気にするでないぞ。どうせ一回ワシの代で潰れかけとんじゃ。それをまあ柊のヤツが……おっと、それはどうでもいいわい」
画面を通して咲良の人となりが伝わってくるようだ。
彼は夏希の想像した通りのひとだった。
あったかい。
そりゃ裏のお婆さんも惚れるよね――。
「ええか。渚。これだけは覚えておけ。ワシはいつまでもおまえの味方じゃ。安心せい」
ふと渚を見ると震えていた。頬に伝う綺麗な雫を拭うことすらなく。
まるで自分に言われたようで、つられて夏希もこみ上げてしまう。
止めどなく流れる涙を、ふたりは同じ体温で受け止めている。
そして動画の再生時間もあと間もなくとなったとき、咲良は「それから――」と言った。
「なお、このUSBメモリは再生終了と同時に自動的に消滅する。以上!」
ブツン!
っと、いきなり画面が暗転した。
「なにぃぃぃぃぃぃぃ!」
「ちょ、ちょっとぉ!」
渚は咄嗟に夏希の身体のうえへと覆い被さった。あの鍛え上げられた肉体で、彼女の全身を包み込む。
一方、夏希も彼の腕のなかで身を縮こまらせた。
迫り来る爆発の恐怖と共に、奇妙な安心感が彼女を満たしていった――。
「うっそぴょーん! ねえねえ騙された? いまどんな気持ち?」
再び画面に映し出された稗田 咲良は、あっかんべーをしていた。
じつに小憎らしい顔である。
そこでようやく動画は終わり、居間に静けさが戻ってきた。
お互いを守るために身体を寄せ合い、一度は万事休すかと覚悟したふたりが思わず同じことを口走る。
「くたばれ、このクソジジィ!」
「くたばれ、このクソジジィ!」
もう死んでますよ、と庭先で野良猫ママのソウタが言った気がした。
ヒマワリの咲く季節。
まだまだ暑い日が続くようだ。
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