第9話 今日の匂い

 夜風に吹かれながら家路を歩く。

 最寄り駅から十五分ほど。

 ブランコのある小さな公園を通り過ぎ、チカチカと切れかけた街灯を右に曲がる。

 ふと日本人にしては彫りの深いアイツの顔が浮かんだ。

 お互いに気があるのではないかと疑いながら歩いたあの日と同じ道程に、夏希はひとり思い出し笑いを噛み殺す。


 彼女にとっては蛇足の三次会を終えての帰宅となるが、そこはそれみんな社会人である。日付けが変わるまでにはまだまだたっぷりと余韻を残しての解散だった。

 夏希の酔いもとっくに覚めていた。だがその足取りは決して軽くはない。

 たばこ臭くなった服や髪の毛の匂いを嗅いではしかめっ面をする。

 まだ終わらない今日の残り香に舌打ちをついた。


 渋谷 ハルの優しさは、カラオケ店でもいかんなく発揮された。

 無論それは夏希だけに向けられたものではない。

 シブちゃんは誰にでも分け隔てなく優しい。だからこそみんなに愛されるのだ。

 それだけに夏希のジェラシーは際限がなかった。


 女子力の高さは時として男性への媚びとうつる。

 そもそも異性への嫌悪が過ぎるというわけでもないのだが、シブちゃんや麗が会社の同僚たちと楽しく歌っている輪にはどうしても入りたくなかった。

 流行りの歌だってうろ覚えだ。

 アニソンのほうがまだ歌える。

 そんな女が合コンへ行って楽しめるはずもない。ましてや目当てはノンケの女性である。

 三重苦どころの騒ぎではなかった。


 酔った勢いもありシブちゃんにベタベタしていた夏希を見ていた男どもが、ふとからかい半分にふたりを茶化した。


「女の子同士って仲いいよねー。そういうの見てて微笑ましいよ」

「じゃあ俺がおホモだちになってやろうか?」

「やめろ! 気持ちワリィ!」


 あははは――。


 どうしてそんな風に笑えるんだ。そういうのじゃねえよクソヤロウ。

 言いたいことも言えないストレス。

 それが常識。世界に掛けられている魔法。絶対的多数の側であれば、いかなるマイノリティをも理解しなくてもいいという傲慢がそこにはある。

 彼らは意識していない。また差別をしているという認識もない。

 なぜならそれが常識だから。

 今更始まったことではないが、いつまでも慣れない。


 コンビニを左手に、突き当りの丁字路を右へと曲がる。そのまま真っすぐに行けば稗田邸だ。やっと帰ってこれた――と、自分でもビックリするほどの安堵があった。

 屋敷へ近づくと、正門からちょっと離れたところにあるガレージのほうが明るいことに気がついた。引っ越しのときここにあの大きな車を停めて、荷降ろしをしたのはまだ記憶に新しい。


 案の定ガレージのシャッターは開いており、そこにはツナギ姿の渚がいた。

 彼の目の前には、ほぼフレームだけの状態になっている一台のバイクがある。彼はその前に腰掛けながらワイヤブラシで小さなパーツを磨いていた。

 傍らには氷入りのバケツに無造作に刺さったワインボトルとミネラルウォーター。そしておつまみのスモークチーズが皿に乗っていた。

 じつに画になる。まるで映画のワンシーンのようだと夏希は思った。


「まだ起きてたのー」


 シャッターの柱に背中をあずけて夏希が声を掛けた。

 すると渚は作業の手を止めて彼女のほうへと顔を向ける。頬には薄っすらとオイルで擦った汚れが付いていた。


「眠れなくてな」

「ホントはあたしのことが心配で寝れなかったんじゃないの?」

「ばーか」


 引っ越しのときは気づかなかったが、ガレージは夏希が思っていたよりも断然広かった。

 ゆうに車二台は置けるスペースが有り、壁際には彼女には名前も分からない工具がズラリと並んでいる。それらすべてが照明の光を弾いてピカピカだ。メカものにはとんと知識のない夏希にも、きちんと手入れがされていることだけは分かった。


 ガレージの半分を解体されたバイクが占領している。もう半分は渚が通勤の脚として使っている国産の軽四があった。

 渚はガレージの隅からパイプ椅子を出してくると、夏希に座るよう促した。そしてキンキンに冷えたミネラルウォーターのペットボトルを手渡される。

 ジメついた初夏の夜に、よく冷えたペットボトルが気持ちいい。

 まだ火照りの残った夏希の頬を、ミネラルウォーターが冷ましていった。


「楽しめたか?」


 渚の問いに夏希はしばし黙り込んだ。


「……つまらなくはなかった」


 嘘は言っていない。

 麗がいてシブちゃんがいた。

 食事をする同じテーブルで断りもなしにタバコをパカパカ吸うヤツもいたし、いちいち料理や酒のうんちくを挟んでくるヤツもいた。

 しきりに夏希の隣に座ろうとしてくるヤツや、麗に粉をかけてくるヤツも。

 それから――。


「ねえ」

「ん?」

「そのワインなんていうヤツ?」


 もしかして自分の感覚がおかしいのかも。

 そう思わなくもない。

 だって常識はつねに自分を置き去りにしてきたのだから。


 しかし渚はボトルに張られたラベルを見ながら眉をしかめている。


「知らね。飲みたかったから適当に買ってきた。あ、チーズも貰い物な。なんかいいヤツだから早めに食えってよ……なんだよ?」

「別に」


 誤魔化しきれない。

 無性に笑顔がこみ上げてきた。

 この気持ち、一体誰に説明すれば分かってくれるというのだろうか。


「ねえ。カラオケ行ったらなに歌う?」


 今度は渚が「うーん」と頭を捻っている。小首をかしげて腕を組み。


「仮面ドライバー・フブキのオープニング?」

「わかる!」


 気がつけば、自分の身体に纏わりついていた今日の匂いが薄れていた。

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