第10話 当たり前のように
渚のガレージはまるで英国の趣味人がこさえたようなバックヤードな雰囲気が漂っている。
一方で足もとには暢気に煙を立ち昇らせている蚊やり豚もいた。
このミスマッチ。
しかしその違和感こそが、気負いのない彼らしくて夏希には心地が良い。
寝れなくてな――そう言った渚だったが、夏希の顔を見るや片付けを始めた。
バットの上に並んだ小さなパーツを、まるで宝石でも扱うかのように壁奥のキャビネットへと丁寧にしまいこんだ。
「直してるんだ。バイク」
「直してるっていうか――レストアだな」
「れすとあ?」
「旧車を手入れしてまた乗れるようにするんだよ」
「普通に直すのとどう違うのよ」
「それはおまえ……色々だよ」
「色々って?」
「うるさいな。もう寝ろよおまえ」
「あー分かんないだー。やーい」
「この――」
渚はウエス(拭き布)を夏希へ投げつけるふりをした。もちろんふりだけ。夏希もまたそれに合わせて逃げるふりをする。
ふたりだけの時間がゆったりと流れてゆく。
昼間の喧騒がまるで嘘のようだった。
ささくれ立っていた夏希の心は、いまでは波紋ひとつない水面そのものである。
「ねえ。これなあに?」
「あん?」
夏希はガレージの隅っこで灰色のシートにかぶった『なにか』を見つけた。
バイクというには中途半端な大きさで、意外に場所を取っている。パッと見た感じは丸みを帯びており、シートの裾からタイヤの一部が露出していた。
渚は『なにか』に近づくとおもむろにシートをはがした。
現れたのはバイクと同色をした奇妙な乗り物だった。しかし夏希が見たところ、車のようでもありバイクのようでもある。『なにか』の正体が分からず不思議な顔をしていると、渚はそれのボディをそっとひと撫でしてこう言った。
「サイドカーだよ」
「さいどかー?」
夏希がオウム返しにそう聞くと、彼はサイドカーを押してバイクの左隣へと置いた。片輪しかないためボディは自然と傾くが、ここまでくれば夏希にも完成図に予想がついた。
「あ、テレビで見たことあるかも」
「こうやってバイクとつなげて一緒走る。それがサイドカー」
「へぇ~」
「これも爺さんの形見だよ。モト・グッツィのV7って言ってな。若い頃に、婆さんとこれで日本一周したんだと」
「日本一周? すごーい」
「酒のんだ時の与太話には聞いてたが、実物見たのは俺もこの屋敷に来てからさ。ガレージの隅で埃被ってたのを見つけて、ちまちまと直してるってわけ」
渚はそう言うとグラスワインを一口含んだ。
乾いた喉に冷えたワイン。続けてクイッと一息に飲み干すと、汗をかいたグラスから雫がポトリと落ちてきた。ひとつ、ふたつ。ガレージの床にシミとなる。
重なり合って、ひとつに溶けて――。
「お婆さん。幸せだね」
「ん?」
「好きな人とふたりっきりでバイク旅行なんて」
「まあその分、苦労も多かったんだけどな。爺さんが破天荒すぎて」
「でも……羨ましいよ」
「――そうだな」
そんな普通の幸せが何よりも尊いと感じる。
この先の未来。世界はどんな変化をするのだろう。価値観は変わっていくのだろうか。
自分にもそんな幸せがやってくるのだろうか。
次第に乾いてゆくガレージ床のシミを見て、夏希はそんな詮無いことを思った。
手際よく片付けをこなしている渚の背中は大きくて頼もしい。
でもそんな彼ですら、自分にとってはその『幸せ』にならないのだ。
世界をややこしくしているのは一体誰なのか。
夏希は少なくとも自分には非はないとつねに思っている。思いたい――。
「ねえ。あとどれくらいで直るの?」
「んー?」
「その……グッチだかエルメスだか知らないけど」
「モト・グッツィ! そうだな――じつはもうエンジンの火入れも試してるから、あと組み立てていくだけなんだが……」
渚はガレージの隅、サイドカーが置いてあった場所の隣に視線を巡らせ言葉をつまらせた。
そこには錆止めの赤に鈍く輝くエンジンスタンドがある。
据え付けられているのは伝統の空冷縦置きVツインだ。九十度に振り分けられた左右の無骨なシリンダーブロックが、ガレージの照明を反射して得も言われぬ存在感を放っている。
「組み上がったら組み上がったで、何だもう終わっちゃうのかってなりそうでさ」
「なにそれ」
夏休みを惜しむ小学生のような渚の物言いが、なんだか夏希にはおかしかった。
でっかい図体をした子供――。
その時の夏希には彼がそう見えた。
「コイツをいじってる間はさ、少しだけ感じるんだ。爺さんを」
「お爺さん?」
「ああ。パーツのひとつひとつに、爺さんの想いがつまってるみたいでさ」
「ふぅん」
やっぱりそうだ。どこかコイツは子供っぽい。
夏希はまたちょっとだけ、渚の本質に触れたような気がした。
「でもさ――」
だから教えてあげなきゃいけないと夏希は思った。
それじゃダメなんだって。
「走り出したらもっと分かるかもしれないよ。お爺さんのこと」
よほどのショックだったのか、普段タレ目がちな渚の瞳が大きく見開かれている。
しばらく言葉も出ないようだったが、一度フレームだけのモト・グッツィに視線を落としてうなずいた。
「なるほどな。そういう考え方もあったか……」
「それでさ。今度迎えに来てよ、会社まで」
「なんでだよ」
「また合コンに誘われたときに断れるじゃん」
「そんな理由かよっ」
ガレージにふたりの笑い声が響いた。
スマホを見ればもうすぐ日付けが変わろうとしている。長い一日だった。
「あ、そうだ。まだ言ってないことがあった」
今日一日。いいことも悪いこともひっくるめて、夏希は笑顔を作ってこう言った。
ただいま――。
そして渚もまた当たり前のように「おかえり」と返した。
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