第12話 毒とパン①

 思いのほか白熱してしまった早朝プロレスのおかげで、渚は二日続けて夏希を会社まで送っていくハメになった。

 勝負は結局つかず仕舞い。興奮して「フーッ!」と威嚇を始めた野良猫ママによるレフェリーストップが掛かったのだ。

 納豆の件もうやむやとなる。しかしそれでも夏希は、彼の作った朝ごはんをとても美味そうに平らげるのである。

 そんな彼女の顔を見てしまったら、何だかもう色々どうでも良くなった渚であった。


 今日の送迎はゴツい外車ではなく、通勤用のマイカーである軽四だ。

 幸い渋滞も昨日ほどではなかったので、オフィスビルのエントランス前で彼女を降ろした。


「行ってきまーす」

「ん」


 言葉少なに返事をした渚は、助手席のウィンドウをあげて走り出す。

 去り際に、同僚と思しき女性と談笑している彼女の姿を見た。優しさが身体から溢れ出ているようなふっくらとしたひとだった。

 彼女の腰へとまわした夏希のいやらしい手つきに、渚は半ば呆れながらも確信に至る。


「いい趣味だ」


 車内でひとりごちた彼は、ウィンカーを右に出しゆっくりとその場をあとにする。

 信号の流れもスムーズだ。

 納豆のことなどすっかり忘れていた。


「おっ。あの店は……」


 信号を左折して目抜き通りへ差し掛かると、慌ただしかった昨日の朝とは違い、色んな情報が目に飛び込んでくる。

 パン屋だ。

 いつも見ている朝の情報番組で取り上げられていた個人経営のベーカリーである。

 まだ九時前だというのにすでに行列が出来ていた。


「へぇ~。こんなとこにあったんだ」


 今度、帰りに買って来てもらうか――。


 香ばしいバゲットの匂いが鼻の奥で広がるようだ。

 たっぷりとバターを塗って、サラミと新鮮な野菜スティックを……。


「……そう言えばアイツ、いつまでいるつもりだ?」


 なし崩し的に同居することになったとはいえ、自分とていつ『本家』から出て行けと言われるやも知れぬ身である。ましてや犬猫を拾ったというレベルの話でもないのだ。

 考えてみれば、何の義理があってアイツを家に入れたのか。


 大島 夏希とは俺にとっての何だ――。


 答えも出ぬままハンドルを握っていると、フロントガラスにぽつんと雨粒が付き始めた。

 ひとつ、またひとつ。

 しばらくするとワイパーを使わねばならないほどに、雨あしは強まってくる。

 天気予報では確か午後からと言ってなかったか。


「ま、いいか」


 詰まるところ犬や猫と同じ宿なしだ。アイツも俺も。

 行く場所のないヤツらが群れてひとつ屋根の下。

 そんな生き方もある――。


 ふと信号待ちの手慰みに、ハンドルをトントンと叩いていた指先が気になった。

 一昨日フラワーショップ『ぱんだ』でバラの棘を刺した痕である。とはいえもはや痛みもなければカサブタもない。

 あるのは『ぱんだ』のスタッフである美山 優とのショッキングな思い出だけ。

 指先に残るあの時の感覚。

 唇の触れた熱。

 わずかに香ったシャンプーの匂い。


 あれは一体何だったんだ――。


 渚は彼岸へと遠のく自分の意識を必死に手繰り寄せて、運転席へと戻ってくる。

 ハンドルを握っている時は余計なことは考えるもんじゃない。

 それに何事も自分に都合のいいようにものを考えることを良しとしない渚は、優の正体がただのド天然であることを本能的に見抜いている。

 蛇の道は蛇だ。

 同じ穴のムジナはすぐ分かる。

 彼は誰にでも優しく無邪気な青年――だからこそ渚のような男には毒になるのだ。


 信号が青になる。

 渚はさっきまで直進しようと思っていたが、急に左へとウィンカーを出した。サイドミラーを確認して左折の体勢に入る。


 脈がないことは重々承知である。

 だから何だというのだ。

 彼の優しさが毒と言うのなら、いっそ食らい尽くして死んでやろうか――。


 渚は通り過ぎたパン屋に向かってハンドルを切る。

 そぼ濡れた夏の交差点は、まだ若干の渋滞を残していた。


 また新しい一日と恋が始まる。

 俺もアイツも――。

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