第33話 蝉しぐれのやむとき

 自室にエアコンが付いていようとも、なぜかついつい居間でくつろぐ時間が増える。

 蚊やり豚のぶーやんをお供に、夏希は縁側で夕涼み。


 蝉しぐれもいまだ鳴りやまぬ、夏真っ盛りと言ったところだろうか。


 渚はまだ仕事から帰らない。したがって夕飯もまだである。

 たまには作っておいてやろうかとも思ったが、彼の聖域であるキッチンで粗相でもしようものなら烈火の如く怒られるのは目に見えている。


 そうなったらそうなったで例の『第一次納豆戦争』のときのようにプロレスで決着をつけるという手もあるのだが、理由が理由だけに洒落で済まなさそうだと感じた。


 だが『稗田流』の本気も一度見てみたい気もする。

 怖いもの見たさというヤツだ。


 プロレス会場での乱闘騒ぎの折り、たまたま近くに座っていた渚に止められた。

 一見すると適当な羽交い締めだったのだが、いまにして思えば完全に動きを封殺されていたのである。勿論、膂力りょりょくの差は歴然だった。しかし渚は夏希を傷つけまいと、筋力にものを言わせるのではなく「技」で彼女の動きを封じていたのだ。


 考えてみればあの一連の騒動ひとつを取ってみても只者ではないのは明白だ。

 ただちょっとばかり夏希の想像とベクトルが違っていただけの話である。


 居間に置いてある扇風機を背後からフル回転。さらにうちわ片手に庭先を見てた夏希だが、野良猫の親子が今日もまた通ってきたことに気づいた。

 植木をガサガサと乗り越えて、現れたのは母猫のソウタに三匹の子猫。それから――。


「あれ? 増えてる?」


 それは白猫の田中さんをそのまま大きくしたようなオス猫だった。

 ぶすっとした横に広い顔がなんだか蚊やり豚のぶーやんに似ている気がして、心のなかでは早くもぶーやん二号と呼んでいる。

 夏希がうちわを左右に振ると、子猫たちが「にゃあにゃあ」と騒いだ。

 きっと遊んでくれるとでも思っているのだろう。


 そうこうしているとガレージのシャッターが開いた音がした。


「あ。帰ってきた」


 夏希は『大家』の帰還に、喜々として玄関へと迎えにいく。

 聞きたいことは山ほどある。

 今夜はそれを肴にして、昼間に結局ドラッグストアまで買いに行った缶酎ハイを美味しくいただくつもりだった。


 が、しかし――。


「ただいま……」


 玄関を開けたのは枯れ木みたいに生気のなくなったひとりの男である。

 自慢の長駆を腰から折り曲げて、立っているのもやっとだと言わんばかりに上がりかまちへと座り込んだ。


「お、おかえり……ど、どした?」

「――はい」


 渚は夏希を一瞥すると、手にしたビニール製の袋を寄越した。

 さっきから匂っているので中身は容易に想像出来たが、あらためて「牛丼?」と聞き返すと、夏希は幽鬼のように立ち上がり、そのまま居間のほうへと歩き出した。


「今日の夕飯それな……」

「え? え? え~?」


 煤けたような渚の背中と、牛丼の入った袋とを交互に見る。

 朝方コンビニから一度帰宅して、出勤するまであれほどワクワクどきどきしていた人物はどこへ行ったというのだろうか。本当は別人なんじゃないかと疑うほどの変貌ぶりだ。


 渚はフラフラとした足取りで居間へとたどり着くと、そのまま庭先に向けて縁側で体育座りをした。両膝に額を押し付けて、岩のように動かない。


「ちょっと! ほんとにどうしたのよっ」


 牛丼をちゃぶ台に乗っけて、夏希は彼の隣に座る。何度「ねえ」と揺さぶっても、渚は沈黙を守り続けた。


 仕方がないので夏希も隣で体育座りをした。相変わらずルーズな部屋着の隙間からは、色んなものがはみ出していた。

 それでも渚は動かない。

 らちの明かない状況にため息をついた夏希は、脱力して見るでもなく庭先を眺めた。


「あ、そうだ。ねえねえ。猫さんまた増えたんだよ」


 その一言に渚は頭をあげた。

 ひどい顔だった。完全に目が死んでいる。


 夏希は「うわっ」と内心思いながらも、つとめて明るく振る舞う。

 新参者の太った白猫を指差して「ほらほら」と。


「あれお父さんかな? 絶対そうだよね、田中さんと毛並みが一緒だもん。それでね、ぶーやんに似てるからさっきからぶーやん二号って呼んで――」

「ユウ」

「へ?」


 やっと口を開いたと思ったら、まるで呪詛のような短い言葉をかすれ声で唱えた。

 死んだような眼差しの先にはぶーやん二号(仮)がいる。暢気にも片足をあげて、股ぐらを気持ちよさそうにグルーミングしていた。


 すると渚がもう一度口を開く。今度はよりハッキリと、夏希に分かるように。


「ユウだよ……あの猫はこれからユウだ」


 猫にフラれた想い人の名前をつける男、それが稗田 渚。

 あまりにも分かりやすく、あまりにも悲しすぎる命名だった。


「花屋か……」

「うん」

「ダメだった……」

「うん」

「……そっか」

「……うん」


 次第に暗くなっていく夕暮れ空は、まるで渚の心情を映しているかのようだ。

 さっきまで精一杯鳴いていた蝉たちも、いつの間にか静まり返っている。

 求愛の失敗は死に等しい蝉たち。

 ふと隣を見ると、まさに死にかけている同居人の姿があった。

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