第13話 毒とパン②

 軽四を路肩に停めた渚は、土砂降りの雨のなかを小走りに駆けてゆく。

 向かう先はフラワーショップ『ぱんだ』である。手には口元を短く折りたたんだ茶無地の紙袋を持っていた。


「いらっしゃいま……こりゃ大変だ」


 びしょ濡れの渚を見た優が、開口一番にそう言った。

 言うが早いか、彼は店の奥へと消えて行き、真っ白いバスタオルを持って再度現れる。

 身長差およそ十センチ。

 渚を見上げる優は、彼の頭にバスタオルを「ほい」とかぶせる。そしてワシャワシャと乱れた濡れ髪を拭いてくれた。


「濡れたままだと風邪ひいちゃいますよ?」

「……あ、ああ。ありがとう。自分でやるから――」


 なにこのイベント……。

 どこかで課金でもしましたっけ……。


 動悸が止まらない。

 あらためてタオルは受け取ったものの渚は思考停止状態である。雨音だけがただ彼の耳朶を打ち、優との幻想的な一時が現実のものであると教えてくれた。


「稗田さん? どうかしました?」


 キョトン顔の彼に「なんでもないよ」と返して濡れた頭を片手で拭いた。

 それから茶無地の紙袋でふさがっていたもう片方の手を持ち上げ、彼の鼻先へとぶら下げる。


「はい」

「なんです?」

「こないだのお礼。先方さんが大層お喜びでね。つぎの新車入れ替えも任せてくれるってさ」

「わあそれはよかった! 花屋冥利につきます」


 屈託のない笑顔というのは、まるで人類の先達が彼の登場を見越してこさえた言葉なのではないかと渚は思った。

 この笑顔が『毒』だというのなら、渚などとうの昔に冒されている。


「やった! カツサンドだ!」

「ちょっといいお店を見つけてね」


 優のガッツポーズにおもわず渚も笑みがこぼれた。

 これもアイツを送っていったおかげかね――。

 渚は今朝の納豆事件を思い出し、眉をしかめた。なんだって自分はこんな時に彼女の顔を思い出すとかと。


 ふと目線を優へと戻して、いましばらく幻想を満喫しようとした。

 すると彼のエプロンの胸元に、真っ赤なバラが咲いているのを見つける。それは生花のバラをブローチにアレンジしたものだった。

 男性の胸元にあるとこれ以上にキザったらしいものはない。だが彼がしていると、もはや笹を持ったパンダのような愛らしさだった。

 鬼に金棒、コアラにユーカリ、美青年にはバラである。


「いいでしょこれ。こないだ稗田さんからもらったバラですよ」

「え、うそ」

「ホントですよ。元々切り花だったから日持ちしないと思って。でもこうやってれば部屋に飾るよりも長く一緒にいられるから」

「……キミは本当に人たらしだなぁ」

「え?」

「キミのことを嫌いになるひとなんているのかね。参ったよほんと」

「またまたー。稗田さんお世辞ばっかり」


 本音だった。

 いつか彼も誰かと恋をして自分の前からいなくなる。それはそう遠くない未来だ。

 渚は新しくひとと出会うとまずこういう風に考える。

 もはやクセになってしまったこの思考回路は、あらゆる交友関係において渚の足かせとなっていた。ひとりがいい。ひとりでいい――。そう心に決めて気づけばアラサーである。


 でもたったひとりだけ頑なな渚の心の壁をぶち破った人物がつい最近、彼の身近へと転がり込んできた。

 そんな彼女のことをもう一度思い出し、渚は苦笑する。ちょうど夏希が、ふくよかな女性社員の腰へと手をまわしているシーンが思い浮かんでしまったからだ。


 アイツは強いな――。


 そう思ったら少しだけ勇気が出た。

 渚は優にバスタオルを返すと「今度ごはんでもどう?」と誘おうとした。気取らず、なるべく自然体で。彼は人たらし。こちらの下心など余裕であしらってくれるだろう。


「優くん、今度の休み――」

「ああああっ! これはヒドイ!」

「え?」


 突如、優は渚の胸ぐらを掴んでシャツをはだけさせた。

 淡いシャンプーの香り――。

 不意打ちの至近距離にまたしてもクラクラする。


「真っ赤じゃないですか!」


 それは早朝プロレスで夏希から食らったドロップキックの痕だった。

 近年プロの試合でもアイツほどに美しいドロップキックを放つ女性はまれであると、渚も妙に感心していたものだ。しかも自分との身長差を考えれば、打点の高さは尋常ではない。


 優は口癖の「大変だ」を言い残してまたしてもバックヤードへと消えていった。

 そして再び現れたとき、今度は打ち身の軟膏を手にしていた。


「ちょっと失礼しますよー」

「ちょ、ちょっと優くんっ!」


 優はおもむろに渚のシャツのボタンを外しはじめた。

 ひとつ、またひとつ。

 生花を冷やすショーケースを背にして、渚は腰を抜かす。


「ぼくフットサルやってるんですけど、これ打ち身に効くんですよ」


 ヌリヌリ。

 適度に鍛え上げられた渚の胸板が、ドロップキックの打撲とはまったく関係のない理由で紅潮していく。それを無視して優の指先は、彼の胸元を蹂躙していった。

 メントールの冷感作用と、渚の羞恥による発熱が交差する。


 いままさに濡れそぼる夏の交差点。


 ムリっす。夏希さん。この子もう小悪魔とかそういうレベルじゃないです――。


 振り絞った勇気はあっという間に霧散した。

 誘いかけたごはんの予定は、またしばらくおあずけである。

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