第11話 朝から密着
稗田 渚の朝は早い。
六時少し前、セットした目覚ましが鳴るよりも先に布団から出る。軽く洗面を済ませると、紺の道着袴をはいて敷地内にある離れ屋へと足を運んだ。
古めかしい錠前を外して門戸を開けると、そこには二十畳ほどの畳部屋があった。
正面奥の壁には神棚が祀られており、その下には『見敵必殺』の文字が掲げられている。
渚は深々とした一礼のあと、右足から入室した。
部屋の中央へと座し、もう一度礼をするとおもむろにその場で股割りをはじめた。時間を掛けて一通りのストレッチで身体を温めると、今度は壁際へと所在を移す。
前回り受け身。畳を腕がパンっと弾いて立ち上がる。壁から壁まで往復すること幾度。
続いて後ろ受け身、横受け身、飛び受け身などを次々とこなしていく。
最後に数種類の体捌きを稽古すると、再び部屋の中央へと座り直してまた一礼をした――。
熱いシャワーで身を清めると、朝飯の準備である。
お気に入りのコアラ柄エプロンを装着した渚は、鍋を火にかけた。市販の粉末だしを使うこともあるが、時間に余裕があるときはつねにその場で出汁をひく。大きな手で掴んだ花鰹を鍋へと投入した。今日の具は夏希への宣言通り、大根と揚げ。
ちなみに大根の先端は前日のだし巻きに添えるためにすでに使っている。
そして今朝のメインであるアジの干物の登場だ。
昨日の酒のつまみにしたスモークチーズと共に、朝イチで納車のあったお客さんにもらったものである。プリプリに身の締まった一品。それの腹を下にして、渚はグリルで焼き始めた。
味噌は合わせ。
稗田家は東海地方にルーツがある。そのため赤味噌の割合が強めだ。ひとによってはダメというが、ここ最近転がり込んできた『居候』には好評である。
米は早炊きで三合。食い意地のはった誰かへのおかわり対策だ。
そうこうしていると、いい匂いに釣られたのか『居候』が起きてくる。
だるだるのノースリーブにホットパンツという艶姿。身長のわりには大きめのバストが、ノースリーブの脇からこぼれそうである。
「おはよー……」
「おはよーさん。時間大丈夫か?」
「らいりょーぶ。コンビニ前からバスが出てた」
「さいですか」
エアコンのない居間。開け放たれた障子戸を背にして、扇風機の真ん前をキープする夏希に向かって「先に歯を磨いてこい!」と檄を飛ばす。
ぶーたれながら洗面所へと消えていった彼女が食卓へと戻ってきた頃には、渚の手料理に納豆を加えた朝食が並んでいた。
「いっただっきまーす」
「はいどうぞ」
完璧な朝だった。
ふたりして、もらった干物に舌鼓を打っている。当然のことながら味噌汁もうまい。
テレビでは朝の情報番組がやっている。
今日は渚のお気に入りアナウンサー(男性)がメインの曜日だ。
昼からは雨が降るという予報だが、外はこれ以上ないほどの快晴である。
暑いながらも爽やかな風の吹く、素晴らしい朝だったのだ。
ここまでは――。
すでに容器から出されて丼にもられた二パック分の納豆。その粘り気を箸で確かめながら夏希が怪訝な表情を見せた。
「アンタこれ、タレ入れる前にちゃんとかき混ぜた?」
「あん? 納豆なんざタレもネギも卵の黄身も全部入れてから混ぜるもんだろう」
すると夏希は茶碗と箸を置いて「分かってないわ」と言い始めた。
「いいこと。納豆というのはまず単体でかき混ぜて、しっかりとした粘り気を確保してからタレを注ぎ入れるものよ。それ以外の食べ方は国連で認められてないわ」
「話デカいな!」
「もー。せっかくの朝ごはん台無し~。今度からしっかりしてよね」
「なんだよそれ。おまえみたいなヤツがグルメこじらせて、外でメシ食うと料理とか酒とかのうんちく垂れ始めんだよ。あーやだやだ」
「し、しないもんそんなことっ!」
「どうだかな~」
「あ、かっちーん。もう黙ってらんない。ちょっと表出なさいよ!」
「ああ出てやろうじゃないか」
朝食を放棄したふたりは居間から庭先へ。
あれだけ快晴だった空は、やおら薄曇りを帯びていった。
野良猫の親子が見守るなか相対したふたり。不穏な空気が漂っている。
しかし一足先に正気を取り戻した渚が折れて「分かった分かった」と、食卓へ戻ろうとしたその瞬間だ。
「どっせーっい!」
「ぬあっ!」
夏希が超人的な跳躍力をもって、渚の喉元へドロップキックを見舞った。打点が高く、蹴りざまの弧を描いて落ちていく姿も美しい。
一方食らった渚も見事な受け身で着地時のダメージをゼロにする。
日頃の訓練の賜物ではあるが、流石にドロップキックを受けることまでは想定していない。
渚は起き上がりざまにローキックを見舞われ、片膝をついた。夏希はその一瞬のスキを突いて脇固めを仕掛けてくる。
「ヘイ、レフェリー! アスクヒム!」
夏希は野良猫に向かって、ギブアップを確認するよう要請した。
無論、猫にそんな芸当は出来っこない。
だが渚も「ノーノー!」と指を横に振ってアピールしている。
もちろん猫にそんなアピールは伝わっていない。
「参ったか!」
「ノー!」
「もうグルメとかバカにしないか!」
「ノー!」
「とりゃ」
「ぐぁああああ」
夏希は脇固めに自重を乗せて、渚を地面へと組み伏せた。
非常に危険な技である。
このあと似たような問答がさらに続いて時間は確実に過ぎてゆく。
無論、夏希がバスに乗りそこなったことは言うまでもない。
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