第19話 夏を希うオンナ

 雨上がりの熱帯夜はまだまだ続いている。

 ねっとりと肌に張り付くジメついた空気は、夢の世界へと旅立つのを阻む不可視のヴェールのようだ。そんな状況に加えて、生来の寝付きの悪さにも拍車が掛かる。

 だから今夜も、渚はひとりガレージに立つ。

 軽四から垂れた雨の雫が、ガレージの隅に流れて水たまりを作っていた。


 眠れない夜は昔から手先を動かすことにしている。

 子供の頃からだ。

 プラモやミニ四駆に始まり、いまでは本物のオートバイをいじっている。

 三つ子の魂百までというか何というか。

 男が欲しがるものは基本的に変わらない。ただ金額が大きくなるだけ――そんな言葉もある。


 今日の渚の作業は仮止めしていたフロントフォークの取り外しだ。

 近々エンジンを載せ直すことを見据えて、フロント周りはスッキリとさせたかった。

 V7は縦置きのシャフトドライブであるためチェーンは存在しない。その代わりに右側のスイングアームの中をプロペラシャフトが通っており、ファイナルギアを介してリアタイヤを駆動するという仕組みである。

 だからという訳でもないが、リア周りは最初からスッキリとしたものだ。


 元々スカスカだったフレームが、まさにがらんどうとなる。

 文字通り『骨』になったモト・グッツィを前にして、渚は一息ついた。


 今夜のお供はビールだった。

 手が汚れてもいいように缶のままで。

 酒の肴は目の前にあるモト・グッツィ。単車乗りの常識だ。


 しばらくひとりで飲んでいると、ドアを叩く音がした。ほんの数日前なら真っ先に怪奇現象を疑うところだが、いまではラップ音よりも騒々しいヤツに心当たりがある。

 そいつは自分用のビール二本と、柿ピー片手に現れた。

 ニコっと笑って「やってる?」とさ。


「今日は休肝日にするとか言ってなかったか?」

「いいじゃん。一杯くらい付き合ってよ」

「一杯じゃないじゃん」

「うるへー」


 プシュッといい音を立てて缶を開ける。

 飲みかけの渚の手元に缶を当てて「カンパーイ」とするや、初めの一本をそのまま一気に飲み干した。


「くぅ~っ!」

「おっさんかよ」

「二十歳の小娘ですぅ」

「嘘つけ。もはや小娘でも二十歳でもないだろうが」

「まあね。今度の誕生日でめでたく二十三ちゃいになります」


 左手でピース。右手でスリーピースを作って年齢を誇示すると、彼女の手はそのまま二本目のビールへと襲い掛かった。


「誕生日いつだっけ? キミのネーミングセンスの無さから推察するところ、夏であることは間違いないと睨んでいるんだけど」

「遠回しに親の悪口言うのやめてくれる? まあ合ってるけど」

「教えとけよ。ご馳走作ってやっから」

「ほんと? あ……でも当日、会社の人がサプライズパーティーしてくれる予定なんだよね」

「おまえサプライズの意味知ってる?」

「だってバレバレなんだもん」


 ほのかに紅く染まる頬に尖らせた唇が、ただでさえ童顔な彼女を幼く見せる。

 ムキになって釈明をするその姿が、渚は何だかおかしかった。


「だからー。折角だけどご馳走は――」

「分かった分かった」

「その次の日で」

「いるんかい!」

「だぁ~ってアンタのごはん美味しいんだも~ん」


 そんな単純な一言が素直に嬉しかった。

 渚は照れ隠しにビールをあおる。


「でもまだ二週間近くあるからー。その間に何作ってもらうか考えておこーっと」

「二週間か……その頃には夏休みも入って近所のガキどもがやかましいだろうな」

「ねえねえ! お祭り行こ、お祭り! りんご飴食べたい」

「気が早いな」

「約束ね、約束!」


 ほろ酔いの夏希はそう言って小指を突き出した。

 細くて小さい指だ。

 その指の付け根にうっすらと残った日焼けのあとを見つけて、渚の胸はキュッと締め付けられた。かつてはまっていたであろう、誰かとのペアリングに思いを馳せて。


 孤独(ひとり)は嫌だよな――。


 渚は無言で彼女の指に、自分の指を絡ませた。

 アルコールのせいなのか、それとも夏の暑さのせいなのか。ポカポカとした体温を小指に感じて、彼女の存在を確かめた。

 夏希は思い出でも幻でもない。いまそこにいる。寄り添いながらも決して溶け合わない。

 奇妙な関係だ。


 奇妙だが――そんなところが渚は気に入っていた。


「そうだ。このオートバイ、いつになったら乗れるの?」

「いつったっておまえ……そうだな組み立てと登録と……」

「けっこう掛かるんだ」


 がっかりとした表情に、渚も「なんだよ?」と訝しげに眉根を寄せた。


「迎えに来てもらおうかと思ったのにな」

「は?」

「サプライズパーティー」

「……おまえサプライズの意味分かってる?」


 かつてこれほどまでひとにサプライズを強要するヤツは見たことがない。

 渚は心の中で苦笑した。

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