第26話 泥棒だ!

 仕事帰りに近所の公園で渚と合流した夏希は、そのまま稗田邸の裏に住む老婆のもとへとアツアツのコロッケを届けた。

 お婆ちゃんには「なんだね、わざわざ」と大層喜ばれたのだが、一緒に行った渚などはしきりに「これで終わらせませんからね、お返し」とコロッケひとつでお礼を済ませられたと思われないよう気にしていた。


「こういうのは気持ちが大事でしょ」


 あっけらかんとして言う夏希に対して渚は不満顔だった。

 ふたりはお婆さんの家で一旦別れ、夏希は歩き、渚は車をガレージに入れるために走らせた。といっても目と鼻の先である。一方通行の関係上もしかすると歩いたほうが早いくらいだ。


 案の定、ガレージが開いた形跡はない。

 夏希は大門の横にある潜戸を抜けようとした。しかし――。


「あれ? 開いてる」


 施錠されているはずの潜戸が開いている。夏希は不審に思いながらもドアノブを掴んで、門を潜った。


「アイツのほうが早かった? どんだけ飛ばしてんのよ」


 グチグチと独り言を口にしながら、内側から潜戸の鍵を掛ける。

 なんだか気持ちが悪いので、とにかく急いで玄関先へと駆けていく。

 そもそも彼が先に帰ってきていようとも潜戸が開いてるのはおかしい。車ならガレージから直で敷地内へと入れるからだ。

 それとも気を利かせて開けてくれた?

 いやいや流石にそこまでは甘やかしてくれない。


「玄関もか――」


 そう。玄関の鍵も開いている。やはり渚が先に帰っているのだろうか。

 不思議に思いながらも玄関を開ける。

 だがそこには見慣れない履き物が一足脱いであった。

 草履である。それもその辺の量販店で買えそうな安物ではなく、畳表を張り込んだ高級品のようだ。鼻緒にくたびれた様子もなく、ビシっと揃えて鎮座している。


 夏希は困惑しながらも家のなかへと上がる。

 とにかくこの気持ち悪さの正体を知りたかった。


 居間へと行く。誰もいない。

 自室へと行く。当たり前だが誰もいない。

 では渚の部屋へと――そう思ったとき、仏間の障子がすこしだけ開いているのに気づいた。


 この家に転がり込んできたとき、エアコンのある和室という夏希のリクエストを叶えてくれたのがいまの自室であるが、数少ないもうひとつがその仏間であった。

 風通しも良く、日当たりのいい西側の部屋。十畳敷きの和室である。


 夏希は仏間へとそっと近づいた。障子戸に手を添えて、一気に開け放つ。


 するとそこには仏壇と正対するひとりの老人の姿があった。

 この暑い盛りに紋付きの羽織袴を身にまとい、座布団も敷かずに正座をしている。

 西洋風の彫りの深い目鼻立ちに、威厳のある口ひげをたくわえていた。


「ど――」


 どちら様ですか――夏希がそう言おうとしていると思ったのだろう。

 老人は静かに立ち上がろうとした。

 だが彼女はそんな真っ当な常識など、これっぽっちも持ち合わせていなかったのである。


「泥棒だああ!」

「え?」


 畳の上をダッシュした夏希は、そのまま低空ドロップキックを老人に向けて放った。

 渚をして芸術品と言わしめる彼女のドロップキックは、低空になってなおその鋭さを増している。的確に相手の胸元を捉え、着弾と同時に全身のバネで伸び上がる――はずであった。


 老人は座したまま、片膝だけをあげて体を入れ替えた。

 渾身のドロップキックを華麗にさばかれた夏希は、そのまま仏間の奥へとかっ飛んでいく。


「かわされたぁ?」

「これこれ。お嬢さんお待ちなさい」

「うるさいこの泥棒! お祖父さんたちの遺影はあたしが守る!」


 今度は腕を取りに行った。

 アマレスのような低い姿勢で突っ込んでいく。頭を下げてタックルをキメる勢いで。


「しょうがないのぉ」


 またしても座したまま体をかわした老人は、彼女のすきを突いて逆に小手をとる。そしてそのままの姿勢で夏希が突っ込んできた勢いを殺さずに――投げた。


 パァンと畳を叩く綺麗な音がする。夏希の受け身である。


「ほぉ」


 老人は驚いたように感嘆を口にした。


 綺麗に投げられた夏希は一瞬、頭が真っ白になった。しかしかつて目指したプロレスの受け身が彼女を助けた。身体に染み付いた技というものは、なかなか消えるものではない。


「ま、まだまだ!」


 老人に小手を取られたまま立ち上がろうとする。しかしその動きを利用されまたしても投げられる。二度、三度、四度と。

 そのうち投げられ疲れた夏希が肩を落として項垂れていると、老人は小手を軽く握ったまま彼女の肩関節をキメてしまった。

 残った手で慌てて肩をタップする夏希に対して、老人は涼しい顔だった。


「あだだだだだ! ギブ! お爺ちゃんギブ!」

「いいのかの? そんな簡単に泥棒から許しを請うて」

「ごめんごめん! 途中からなんか違うなって思ってた! だから許してってば!」

「ホッホッホ。面白い娘じゃて」


 ようやく解放された夏希は肩を押さえて畳の上にへたり込む。

 完敗だった。手も足も出ないとはこのことか。


「お、お爺ちゃん何者なの? 強すぎるよ」

「ワシか? ワシの名は稗田ひえだ ひいらぎ。そこで馬鹿面下げて突っ立っとる悪たれの大叔父よ」

「え?」


 夏希が振り返ると、開け放たれた障子戸の向こうで棒立ちになっている渚の姿があった。

 突如現れた大叔父・柊のことよりもむしろ、いきなり戦闘に持ち込んだ夏希の神経にあっけに取られていたらしい。


「お、オジキ……どうしたの急に……」

「弟が兄の御霊を見舞うに急もなにもなかろう」

「いやそうだけど……」

「分かっとる。冗談じゃろうが。そう嫌そうな顔をするな」


 いつもの歯切れの良さがない渚を見て、夏希は不思議だった。何となくではあるが、彼と実家の関係性が仄見えてきたような気がした。

 夏希はあらためて柊老人の顔を見た。

 口ひげの有無はあるものの、その面影は昼間見た『稗田 咲良さくら』と瓜二つであった。

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