第25話 夕焼けコロッケ

 夕暮れ迫る帰り道。

 夏希はひとつ前のバス停で降りて歩いてみた。


 考えてみれば引っ越してからというもの会社と稗田邸の往復しかしていない。しかも通勤はバス、うち二日の出勤は渚の送迎によりドア・ツー・ドアだった。

 それに昨日の今頃は激しい雨が降っていた。

 帰りは反対車線になるが、コンビニ近くのバス停からの短い距離すら駆け足である。

 夏希はまだこの町のことを何も知らない。


 次第に紅く染まっていく空をうつして川が流れる。水面は穏やかに揺れて、水鳥たちの休息所になっていた。

 河川敷では制服姿の女子高生らがトランペットやトロンボーンを練習している。

 そんな光景を見てしまっては、夏希の胸はときめかずにはいられない。こっそりスマホを出して写メを撮る。

 はじける笑顔と風になびくスカーフがじつに画になる。

 切り取られた一瞬が永遠になりますように――。

 遠い昔に自分にもあった青春時代を思い起こして、ちょっぴり甘酸っぱい記憶が胸をなでた。


 川に沿ってしばらく堤防を歩くと、今朝方バスの窓から見えていた小学校の近くへと出た。

 夕陽を跳ね返す窓ガラスがオレンジに光ってまぶしい。

 校庭では野球部が練習をしている。大きな声を出し、全力で走る。

 まるでエネルギーの塊だ。

 夏希は坊主頭の彼らの姿に、心のなかで喝采を送る。頑張れよ、と。


 気がつけば蝉の声――。

 ドア・ツー・ドアでは気づかない夏の匂いがする。


 行き交う人々も様々だ。

 仕事帰りのサラリーマンを自転車に乗った主婦軍団が追い越していく。

 上から下までランニングウェアでキメた本気モードの市民ランナーは、おのれとの戦いために明らかに周囲から浮いていることを厭わない。

 夏休みも近づきはしゃぐ子供たちの群れに、お散歩中のワンちゃんが突っ込んでいく。

 飼い主さんも大変だ。

 ポメラニアン、ウェルシュ・コーギーにトイ・プードル。

 どうやらこの辺は小型犬が多いようだ。

 夏希は持ち前の図々しさで、お散歩中のワンちゃんに会うたびにワシャワシャと撫でさせてもらっていた。飼い主さんも我が犬を褒められて嫌な気分はしないだろう。

 皆、夕方のまったりとした時間帯に笑顔を漂わせる。


 商店街もまた賑やかだ。

 駅前の量販店にいささか客を取られている印象は否めないものの、いい意味で田舎の面影が色濃く残ったこの町ではいまだ人間同士の付き合いが濃密である。

 ぼんやりとそんなことを考えていたら、裏のお婆さんの顔が脳裏に浮かんだ。


 丁度そのとき夏希の鼻先を香ばしい匂いがくすぐった。

 甘い脂に包まれたあったかい匂い。お肉屋さんのコロッケだ。

 夏希はその場で足を止める。

 商店街に軒を連ねる食べ物屋さん。なかでも彼女が胸おどらせるのは精肉店である。

 ショーケースに鎮座する真っ赤な幸せの塊に、肉食系女子(物理)の瞳はキラキラと輝く。


「おばちゃん。コロッケちょうだい。ふたつ……みっつね」


 揚げたてのアツアツを頭巾をかぶった店のおばちゃんから受け取ると、ホクホク顔で商店街をあとにする。

 彼女が歩けば一緒に美味しいコロッケの匂いもたなびいた。

 行き交うひとたちは振り返り、そのまま吸い込まれるようにお肉屋さんへと足を向ける。きっと今日のコロッケの売り上げにいくらか貢献したことだろう。


 コロッケの入った紙袋を抱いたまま夏希が向かったのはブランコのある小さな公園だ。

 一昨日の飲み会の帰り道でもその横を通ったのを覚えている。

 もっと遡れば最初の日。

 プロレス観戦のあとファミレスからの帰り道にアイツと歩いたこの道。まだ一週間も経っていないのにもう随分とむかしのことのようにも感じる。


 砂場で遊んでいた子らが母親に呼ばれて帰っていく。

 手をつなぎ、今日あったことを一生懸命お母さんに話していた。


 夏希はおもむろにブランコへと座った。

 キコキコと足で前後に揺らして、ただぼんやりと目の前を眺めている。

 今日のこと、昨日のこと。もっと前のこと。

 ブランコに揺られながら色んなことを考えていると、不意に涙が流れた。

 悲しいわけでも辛いわけでもない。

 後悔は山ほどあるが、それなりに納得はしている。そうやってずっと生きてきた。

 でも涙は流れる。

 ただそれだけ――。


 泣くだけ泣いてコロッケのぬくもりに自分を取り戻すと、彼女は紙袋を開けた。

 柔らかに立ち上る湯気が頬を撫でていく。

 もう泣かないで――まるでそう言っているようだった。

 個別の包み紙に巻かれたサクサクのコロッケがみっつ、優しく彼女を出迎える。

 ごくんと鳴る喉元と共に、夏希の笑顔は蘇った。


 早速かぶりつこうと彼女が紙袋へと手を伸ばしたとき、後ろから「ぷっぷっ」と自動車のクラクションが鳴った。

 振り返ってみると、そこには見覚えのある軽四が停まっていた。


「なにやってんだよー」


 渚である。

 夏希は無言で手招きして彼を呼んだ。


 渚は「なんだよ」と面倒臭そうな顔をしながらも軽四を路肩に停めて、公園のなかへ入ってきた。さすがに暑かったのか今日はジャケットは着ていない。はだけたシャツの胸元は相変わらずだが、ドロップキックの傷跡はかなり薄まっていた。


「はい」

「コロッケ?」

「そう。帰りに買ってきたの。一緒に食べよ」


 コロッケを手渡された渚は空いている隣のブランコへと座った。

 暮れ掛かる夕陽に染まった公園に、デコボココンビの大人ふたりがブランコに揺られてコロッケを食べている光景の平和さときたら。


「これ商店街の肉屋だろ? 久々食ったけどやっぱ美味いな」

「でしょー」

「なんでおまえが自慢げなんだよ」

「へへへ」


 夏希は自分のコロッケを食べ終わると、残ったひとつを小脇に抱えてブランコの上に立った。

 猛烈な勢いで立ち漕ぎをし始めた彼女は、あっという間に水平に迫る。

 そして彼女はダイブした。

 ブランコの周りにある柵を越え、ムーンサルトを決めての見事な着地。

 これには渚も拍手である。


「さ、行こうか!」

「行こうってどこに?」


 すると夏希はコロッケの入った紙袋を突き出して、ニッコリと笑う。


「裏のお婆ちゃんとこ」


 一度目を丸くした渚だったが、彼女の意図を把握すると目を細めた。

 ゆっくりとした動作で前髪を後ろへと撫でつけるその様子に、夏希は昼間インターネットで調べた『稗田 咲良ひえだ さくら』の面影を見た。

 年寄りだってずっと老人だったわけではないし、自分たちもずっと若いままではいられない。

 ふと夏希は裏のお婆ちゃんが若かった頃の姿を想像し、奇妙な気持ちになった。

 同時に写メに撮った吹奏楽部の女子高生たちともそのイメージが重なり、時空の壁が急になくなったような感覚に陥る。


 若いお婆ちゃんと同級生の自分――。


 そんな馬鹿な想像をして、ひとり夏希はニヤニヤした。

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