第45話宵闇の美学(7)

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「人というのは傲慢で無知である場合が多い。非常に、と付け加えてもいい。自身が無知であることに気づいていない。何か一つを知ればそれで十を知った気になる。そして、十を知れば百に、百を知れば千に、千を知れば万に、と勘違いを深めていく。しかしそれは所詮のところ勘違いであるから気づけば自分のことを高めている知識など嘘八百だ。真実であるとそう信じているだけで、真実など知りもしないのに、まるで知っているかのように話すこともできる。驚きだな」


 初老の白鬚を蓄えた男がそう言ってコーヒーを啜った。目深にハンチング帽をかぶって、小さな丸眼鏡を鼻筋にかけている。髪も髭も白んでいるものだから西洋人のような顔がより年老いて見えた。その割に流暢に日本語を話すものだ。と感心しつつ、ふくよかな店主は困ったように笑いながら、洗い終えた食器を拭いている。


「ところで、君は何か知っていることはあるかな」


 ふと、声をかけられた。あたりを見ても、店内には店主と初老の彼以外にいないから、店主はああ、と気づいて微笑んだ。


「何か、というのは?」

「君の思う何か、でいい」


 皿を拭く手を止めて、店主が視線を宙へ泳がせた。何か、あっただろうか。あまりにも漠然としている質問であるが、彼は人がいいから無碍にはできず、何かないかと思いを巡らせた。そして、初老の男の前に置いてある軽食の乗った皿を見て思いついた。


「そうですねえ、俺の思う何か、何か——そうだ。今あなたの前に置いてあるそれ。その名前を由来を知っていますか?」

「無論、知っているよ。十八世紀頃に生きていたイギリスの伯爵、ジョン・モンターギュ・サンドイッチから取られたのだろう」

「ええ、そうです、賭け事が好きなサンドイッチ伯爵が賭け事をしながらでも食事ができるようにとコンビーフや干し肉をパンの間に挟んだのがサンドイッチの始まりと言われています。でもそれ、実はサンドイッチではなくてクラブサンドというんです。その名前の由来も賭け事が関係しているといわれています。アメリカのニューヨーク州サラトガのカジノ、サラトガクラブで賭け事をしながら食事をするために三枚のパンで重ねられたサンドイッチを提供するようになったのがその始まりと言われているんですよ」


 拭き終えた皿を重ねながら、店主が「本当かどうかはわかりませんが」と笑った。初老の男はハンチング帽のつばを少し触って、丸眼鏡をくいと上げた。


「ふむ。君はなかなか物事を知っているようだな」

「これだけでそういわれると照れますね。全然大したことないですよ」

「ああ、大したことはない。けれども、万人がそれを知っているわけではない。少なくとも、この喫茶店を利用する客の半数以上は知らないことだろう」

「まあ、確かに、そうかもしれませんね」

「残念だ」男がため息をついた。

「もう少し君と話をしてみたいと思えたが、残念ながら時間だ」


 それは残念、と店主がカウンターを出てレジに向かった。


「うちのボスはとても人らしくてね。傲慢で無知であるが、しかしボスだ。私は彼に仕えている身だから彼のいうことは絶対でね」

「慕っていらっしゃるんですね」

「そうだな、慕っているよ。君が君のところのボスを心から慕っているように、私も私のボスを慕っている」


 店主の顔が強張った。


「時間、というのは何もこの後に用事があってここを後にしなければいけないわけじゃない。無論、無銭飲食をする気もない。お代はここに置いておこう。しかし私が立ち上がるのは君を殺すためだ」


 今度は店主がため息をついた。


「いつの日か、この店にもそういう人が来るとは思っていましたが、まさかこんなに早いとはなあ。でも、申し訳ありませんが、うちのルールで見知らぬ人は殺さないんですよ」

「ほう、ならば名乗ろう。私は百鬼夜行組合、打壊組うちこわしぐみ組長を任されているカッシェという」

「初めて聞く組ですね。新興勢力ですか?」

「そんなところだ。しかし、新興だろうと力があれば関係はない」

「そうですか、でも、それだけじゃあ俺は動けなくて」

「そうか、なら死ぬといい。何、頭蓋を軽く砕くだけだ」


 ハンチング帽を手に取ると、ぶわりと炎に包まれて火車を模したハンマーが現れた。


「えっ、っと。それは、どんなマジックで?」店主が苦笑いをした。

「マジックではない。言うなれば妖術だ。君は以前にも見たことがあるはずだ。目の前で容姿を変化させる妖術を」


 店主——肉屋が嫌な顔をした。


「まさかあの子がボスですか」

「そうとも、ボスだ。非常に幼く、非常に傲慢で、浅はかだが、我々のトップだ。彼がいなければ我々はいない」

「彼? まさか、性別も関係なく変装——まさしく変化だ。すごいな。葬儀屋さんはそんなの相手にするつもりなのか」

「ずいぶんと余裕そうだな」

「ああ、すみません。仕事柄、生死の境を行ったり来たりしていますので、今更そんなに深刻にはなりません」

「ボスが言っていた通りだな。しかし妹のことになると話が違うらしいな」


 ぎっと肉屋が彼を睨んだ。


「ふむ、それもまたボスが言っていた通りか。意外や意外、成長しているようだ。鍵鷲は甘いと思っていたが、そんなこともなかったか」


 顔色を変えずにカッシェは顎鬚をさすった。

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