第28話「謝罪の美学」(7)

 清掃のアルバイトを始めて一月ほど経った。初めは勝手が分からず効率が悪くて、共に仕事をしているパートの間島によく迷惑をかけていたが、おおよその内容はわかったので、最近ではよく働ける。細かいところにも目が行き届いて、彼女からも褒められることが多くなった。


「アンタも大変ね。普通に働いてその上こんな肉体労働までしなきゃいけないなんて。なんだって離婚しないの」


 よそ者がその家の事情にあれこれ言うもんじゃないだろうけど——とある時、間島が掃除機を止めて彼に尋ねた。はあ、と間島はため息をついた。


アタシは独り身だし自分の金さえ稼げればそれでいいけど、アンタの場合はそうじゃないんでしょ?」

「私は、その、一家の大黒柱ですから」


 ふうん。間島はもう一度掃除機のスイッチを入れて床のほこりを吸っていく。——度を越してんじゃないの。間島の言葉も掃除機に吸い込まれていった。


 丸の内にある空島コーポレーションの清掃を終えた彼らはそのまま更衣室に利用させてもらっている隣のビルへと向かう。お互いに別々の更衣室に入ろうとしたところで(彼は男だし、彼女は女性なのだから当然だが)間島が彼にご飯でも食べに行こうと提案した。


 彼は困ったように笑って言葉を探している。それを見かねた間島が短く息を吐いた。


アタシが奢るから」彼は即座に首を横に振った。手も顔の前でぶるぶると振り続ける。


「それは申し訳ないですよ。私もいい大人ですし、むしろ私が奢るくらいじゃないと」

「じゃあ、こういうのはどう? ちょっとアタシの人生相談受けてよ。だからその分ってことで。着替えたらここで待ってて」


 間島が彼の前のドアを開けて、彼を押し入れた。

 彼は作業着を脱ぎ捨てて、丁寧に折りたたんだ。折りたたみながら、どうしようかと悩みあぐねる。


 男のプライドというものがある。謝り通しの彼であるが、そんな彼にだってそれはある。何より他人にそうやって気を遣わせてしまうのが申し訳なかった。自分に割り振られたロッカーに折りたたんだ作業着をそっと置いて、自分の普段着に着替える。g.u.で購入した、全身合わせても六千円程度のものだった。


 そのズボンの尻ポケットに入れていた安い二つ折り財布を確認すると、昼食代としてとっておいた五百円玉があった。安いファストフード店ならば割り勘、ということでどうにかなるだろう。よし、と意気込んで更衣室を出た。そこにはすでに着替え終えていた間島がいた。年相応な落ち着いた服装であったが、自分とは打って変わってなんだか高そうに思える。気品があるというか、間島自身にそういう雰囲気があるのかもしれないが。肩口まで伸びた明るめのブラウンに染められた髪の毛はカールが巻かれている。清掃の仕事をしているときは帽子を被っているのでわからなかったが、身嗜みが想像以上に整っていて、失礼な話だが、彼は一瞬目の前の女性が間島であると認識することが出来なかった。


「女性を待たせるなんて良い度胸じゃない」


 間島がにやりと口角を吊り上げる。彼はいつものようにすみませんと頭を下げた。ああもうと間島がしっしと手を払う。


「そんなに気にしないでよ。怒っちゃいないわ。アンタさあ、そんなんだと胃に穴が空いちゃうよ?」

「すみません……」

「謝るのはよしなって。それじゃ、行こう」


 間島が歩きだして、その背中に彼はあの、と声をかけた。呼び止められた間島がさらりと振り向いて、目で何かと尋ねてきた。


「安い、お店なら、私もお金が出せますので」


 間島が目を見開いて、微笑んだ。


「意外と男前じゃない。見直したわ」


 今度は彼が目を見開いて、恥ずかしそうに笑った。


「でも今回はアタシが奢るわよ? 今度はアンタが奢ってちょうだい」


 行くよ、と間島に腕を引かれて彼はビルを後にした。時刻はもう日付が変わる直前だった。道中、彼は後生大事につけている腕時計を確認すると、それを見た間島が息を漏らした。


「意外にいい腕時計してんのね。その服には少し目立っちゃうけど」


 そう言われて彼は腕時計を見やった。確かに、腕時計だけは立派だ。まだ独り身だったころ、いつかこれに見合うほどの男になれ、と今は亡くなった両親が贈ってくれたものだった。


 両親のことを思い出していつの間にか彼は泣いていた。ぼろぼろと涙をこぼしていた。街中で四十を過ぎたでっぷりとした男がぼろぼろと泣いている。ここ最近、それこそ掃除屋と名乗る彼と出会ってから、人間的に何か麻痺していた部分の感覚が戻ってきたような気がして、そのせいかしょっちゅう泣いているような気もする。


 隣で間島があたふたとしているのを見て、何度となく謝ったが、間島は気にしないでの一点張りで、もう、と力強く口にしたかと思うと彼の手を取って、早足になりながら歩き出した。


「酒でも飲んで紛らわしたら? 話だったらいくらだって聞いてあげるし。ね、アタシがいるわよ。まだまだ若造だし、娘くらいにしか思えないだろうけれど話し相手にくらいなるわよ」


 彼は間島の肩を借りるようにして、近場のバーに入って行く。木製のドアを開けて、マスターにむかって「今日は二人!」と言って、入って右奥のカウンターテーブルに腰を下ろした。間島は慣れたようにビールを二つ頼んで、静かに頷くように首を小刻みに振った。深呼吸をして、空を見る。隣で肩を揺らす彼の背中をさすりながら、泣き止むのを待った。


 店主は何も言わず、ことりと二人の前にグラスに入ったビールを置いて、静かに会釈をして二人から距離を置いて、カウンター奥に背を預ける。細長い煙草を咥えて、そこで火を着けた。すうっと紫煙を吸い込んで薄く吐き出すと、天井の照明が紫煙に線を差した。


 ゆらゆらと煙が揺れて天井に向かって上がっていく。ふわりと霧散して、次の煙がやってくる。店主が一本を吸い終えて、近くの灰皿に吸い殻を押し付けたころ、ようやく彼は落ち着いたようで、すみませんでした。と隣に座る間島に頭を下げた。


「気にしなくていいってば。泣いちゃうほど何かあったんでしょ? 無理に話せなんて言わない。聞きたくて仕方ないわけでもない。アンタが話して気がまぎれるなら話を聞くってだけ。そうじゃないなら、飲もうよ。しこたま飲んで、家に帰ってゆっくり眠ればいい。明日は日曜だし。休日なんだから。アンタシフト入ってなかったでしょ?」


 こくりと彼は首を垂れた。


「ならほら、グラス持って。乾杯しよう」


 二人はグラスを持って、かちりとグラスを合わせた。


「今日も一日お疲れさま」


 間島は一口飲み込んで、これだこれだと笑顔になった。おどおどとした彼も、つられて飲んで、顔をほころばせた。


「美味しいです。美味しい……いつ振りだろう、美味しいです」


 目を潤ませて、彼ははにかんだ。


「たったビール一杯でそんなに喜んでもらえるなんて。マスターもよかったね」

「そうね。私も嬉しいわ。はい、これ。おつまみね」


 マスターが漬物の乗った小皿をふたつ、二人の前に置いた。


「ありがと。そういや、あのお兄さんは?」

「ああ、ちょっとね。事情があってもう来れないのよ」

「あ、そうなんだ。残念。聞き上手だったのに」


 頬杖をついて、間島がカウンター奥の酒棚をぼーっと見る。

 そうね、と寂しそうに目を細めたマスターが、間島の見るカウンター奥を見て、「何か飲みたいのある?」と間島に尋ねた。


「そちらの方も。何かありますか? うちの品揃えは他の店よりも充実してますよ」


 尋ねられた彼は、酒棚を眺めながら、苦笑いを作った。なにぶん、こういった店に来るのは十数年ぶりだったし、このバー自体の雰囲気がなんともおしゃれで自分が場違いなような気がして、居た堪れなかった。それを見かねた間島がとんと彼の背を叩いた。


「ほら、アタシの奢りなんだから。好きなの頼んで」

「あ、いやその。何を頼めばいいのか、ちょっと私には分からなくて」


 彼は頭をかいた。


「ああ、いや、奢られるのは申し訳ないので! ここらへんってATMありましたっけ? 下ろしてきます」

「いいから。せっかくこんな美人とお話出来るってのになんでそういう風に逃げようとするかなあ」

「あ、その、そういうのはあまり経験がないので。そのええと」


 あはは、と誤魔化すように彼ははにかむ。


「こんな風に、人とお酒を飲めるのも随分と久しぶりなので、その。なんというか」


 彼はグラスのビールを喉を鳴らして半分ほど飲み干した。


「美味しくて。こんなに美味しいなんて。その、すみません。あれ、ははは、すみません、泣いてばかりで……」


 間島は静かに微笑んだ。


「美味しいでしょ? 美味しいのよ。働いたあとに飲むお酒も、食べる料理も、幸せな気持ちでいたらなんでも美味しいのよ。こう言っちゃなんだけれど、アンタの問題に部外者が口出すのもどうかと思うけれど、アンタは今、不幸せなのよ。こんなに素敵な時間を持てるのに、アンタは今それを失くしてんのよ。ごめんね、説教染みて。これから、たまには一緒に飲みましょうよ。アタシも話し相手が出来たら嬉しいし、ね」

「あ、えっと。私には何もありませんし、その、一緒にいて、楽しいような時間を過ごせるとは思えなくて……それに」

「それに?」

「歳が、ね。私はもう四十も過ぎてますし、こんな男があなたの知り合いってだけであなたの価値が下がるというか」

「なにそれ。馬鹿じゃないの?」

「すみません」

「アンタさ、そんな細かいこと気にしないでよ。仕事仲間のアンタと仲良くなりたいのよ。確かに歳離れてるし、アタシはこんな感じだし? そりゃ敬遠したい気持ちもわかるけどさあ。マスター、マスターからもなんか言ってよ」


 間島に話を振られたマスターは紫煙を急に吸い込んで咳き込んだ。


「なんで、あんたの恋路を私が応援しなくちゃなんないのよ」

「こ、恋じゃないってば!」

「それに妻子持ちなんでしょ? 趣味悪すぎ」

「だから違うってば!」


 間島が顔を赤らめて、カウンターに手を叩きつけて身を乗り出した。

 隣にいる彼は何事かと目を忙しなくぐるぐると動かして、精一杯の言葉で「良くないですよ!」とだけ放った。


「だから違うっての! アタシはアンタと仲良くなりたいってだけ! 仕事仲間として! アタシこんなんだから今まで一月ももった相方がいなくて。なのにアンタはずっとこうやって一月も仕事してるから!」


 マスターは、なんだそれ、と肩を崩した。

 ふん、と間島はそっぽを向いた。それから、マスターにビールをもう一杯注文した。


「アンタは?」

「私はもうこれだけで。あの、それで人生相談っていうのは」

「なにそれ?」間島がぽかんとした。すると彼もぽかんとした。

「だって、ここに来るときにあなたが言っていたじゃないですか」

「ああ、あれはアンタと飲む口実」


 彼は唖然とした。唖然として、手元にあったビールと一緒に、騙されたという言葉を飲み込んだ。飲み込んでみて、意外と悪い気がしなかった。


 それから他愛もない話をした。彼の娘の話や、間島の生活の話やら、最近物騒だという話もしたし、掃除屋以来、話す相手が出来たことが嬉しかった。


 少し時が流れて、間島が出来上がってきたころになんとなしに腕時計を見やって愕然とした。


 あまりにも楽しくて、時が流れることを気に留めずにいたけれど、時刻は無情にも二時を指していた。そろそろ帰らなければ、妻がきっと鬼のように怒るだろう。それだけはどうしても避けなければならない。今から帰れば、歩いても一時間ほどで家に着くだろう。名残惜しいが、仕方ない。


 あの、と彼は出来上がった間島に声をかけた。何、と間島はニコニコ顔で返してきた。申し訳なく思うが、どうしても言わなければならない。意を決して彼は口を開いた。


「すみません、そろそろ帰らないといけません」


 当然ながら、間島が表情を豹変させて睨んできた。どうしろというのだと彼は困り果てた。そんな彼の顔を見て、間島は冗談、とウインクした。

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