第29話「謝罪の美学」(8)

 間島が「気をつけて帰りなねー」と彼に言う。テーブルに突っ伏して、こちらを見やる顔はほのかに赤く、幸せそうに緩んでいる。彼は五百円玉をマスターに差し出して、自分が飲んだビール代はこれで足りるかと尋ねた。


 するとマスターは首を振って「いいのいいの」とその五百円玉を受け取らなかった。でも、と続ける彼にマスターは「つけにしておくから今度来たら払ってよ」とウインクしてみせた。


 すみません、と頭を下げる彼を制して、「そこはありがとう、でしょ」とマスターは言った。


「ありがとうも、すみませんも、同じ意味にとれる時もあるけれど、だったら私はありがとうの方が言われたいわ。気持ちがいいもの」


 どこかで聞いたようなことを言われて、彼はああ、と頭を掻いた。すみま、と途中まで言ったところで口をつぐんで、彼は笑顔になって「ありがとうございます」と会釈した。また今度来たときに払うと伝えて彼は扉の前に立った。と、間島が急に彼を呼び止めた。どうしたろうと彼が間島の方を振り向くと、彼女はふらふらと千鳥足で彼の元へ歩いてきているところだった。ふらつく彼女を見て、彼は思わず支えなければと体を動かした。


 しっかりと立たせるように両腕を掴まれた間島はびくりと体を震わせた。手のひらからそれが伝わった彼は即座に手を離して、謝りながら距離を取った。間島が途端にしおらしくなって、彼には間島が別人に思えるくらいだった。少し静寂があって、それから間島が口を開いた。


「アンタと飲めて楽しかった。また飲みたいから、今度誘うから」


 そう言って、間島は彼の顔を見て、目を丸くした。彼もそんなことを言われるとは思いもしなかったので、驚いて口まで開けていた。


「ほら、もう時間なんでしょ! とっとと帰りなよ! じゃあね!」


 間島に言われた通り、彼は急いで店を出た。マスターの「私は何を見せられてるんだろう」という独り言を聴きながら。


 店を出て、我が家への帰路を急ぐ彼は家のことを想った。今頃妻は何をしているだろう。睡眠不足は肌の天敵だと口酸っぱく言う彼女のことだから、もう夢の中だろうか。娘はどうだろう。高校に入学して半年近く経つが、授業についていけているのだろうか。


 そんな風に心配をして、想いを寄せて馳せたところで、今は自分には何も見返りなどないことはもうわかっている。しかし、愛は無償であるものだし、見返りなど求めるものではないはずだ、と彼は考える。むしろ感謝しなければならないくらいなのだ、と。


 新宿の街並みは深夜だというのに光に溢れていて、少し危ない気もする。学生時代、特にこれと言って何も長所の無かった彼を好いてくれた女性は妻のみだ。二人で過ごせれば、つまらない映画だろうと、まずい料理屋だろうと、笑い話になっていた。失敗すらも楽しい経験だった。


 天涯孤独だと泣いていた彼女は、自分といれば幸せ者だと微笑んでいた。今はきっと、もう自分が要らなくなってしまったのだろうけれど、でもきっと、心のどこかにあの頃の彼女がいるはずだ。


 あの頃の彼の後ろを着いてきて、後ろを振り向けば楽しそうに小首を傾げて、隣にやってくる。それから左腕を絡ませて、ぎゅっとその手を握るのだ。


 少し上を見上げて、「私は幸せ者だー」と誰にともなく言っていた彼女が、自分だけが覚えているだけなのかもしれないけれど、あのころの彼女は、妻になった今だって、彼女の中にいるはずだ。


 何かがどう変わってしまったのか、自分には分からなくてどうしてこんなに距離が生まれてしまったのか、左腕がこんなに寂しいのか、月夜を見上げて考える。


 とっさに思いついたのはこのでっぷりとしたお腹だ。といっても大学時代からずっとこんな調子だった。しかし社会人になってから体質なのか簡単に太っていき、気付けばこんなにでっぷりと膨らんでいた。


 そのせいだろうか。痩せれば、何か変わるだろうか。運動して、体がスリムになれば、妻と娘は何か変わってくれるだろうか。そう思いながら、彼は働くだけでなく運動もしようと決意した。


 しかし。

 家に帰れば家事が待っている。まずはそれを片づけなければ。そう思うと気が重くなる。久しぶりに酒を飲んだからか、心がふわふわと軽かったのに、鉄の柱のようなものがどつりと心のど真ん中を突き刺したようだった。


 街灯がじりじりと点滅しているところがあった。いつも行くあの場所から十メートルくらい離れたところだった。店を出てどれほど歩いたろう。何度となく客引きから声をかけられたが、一切無視をして歩いてきた。それに比べるとここらへんは無音に近いほど静かなものだ。


 閑静な住宅街——深夜だから当たり前であるが、彼を挟むように建ち並ぶマンションや一軒家やら、その部屋から漏れ出てくる光はあまりない。それとは対照的に街灯は道路を照らす。


 ここからさらに三十分も歩けば家に着く。けれどもその前にあの場所にふと立ち寄ることにした。急いでいたが、どうしても報告したくなったのだ。


 しかし今までの上機嫌な想いとは裏腹に、点滅する街灯を見てまるで自分の未来のようだと思って気持ちが沈んだ。不安定でいつ消えるのか分からない——それが怖いのに、誰か手入れをしてくれるのかも分からず、どうなるのかも分からず、そのままそこにあって時が来れば仕事をこなす。こなすだけこなして、そのあとはどうなるだろう?


 不規則に光る街灯の下にあった自動販売機で缶コーヒーを二つ買った。マスターのやさしさに感謝した。払っていたらこの缶コーヒーは買えなかった。二つとも無糖で、ここまで歩いてきたからきりっと冷えた缶は首筋に当てると心地よかった。あとちょっとで着くころだ。


 片方を首筋に当てて、もう片方を右手に持って、上がってしまった息を誤魔化すように短く吐き出した。等間隔で続く街灯の下、あと少し歩けばあの場所につく。何もなくともよくそこに行くが、何かあったら必ずそこに行こうと決めている場所につく。


 スポットライトが当たっているかのように街灯が照らす缶コーヒーの山は、少し増えているように思う。


 あの人は人気者だったのかな、と今は亡き友人に想いを馳せた。


「昨日ぶりです」


 彼は右手に持っていた缶コーヒーを缶の山の麓に置いた。


「缶コーヒー、増えましたね。みんなあなたに飲んでほしいんですね。ちゃんと飲んでますか? あ、でもあんまり飲むとお腹下しちゃいますからね、気をつけてください」


 まだ暑いなあと独り言を言って、彼は近くの壁にもたれた。ぷしゅりと音を立てて自分の分の缶コーヒーを開けた。


「今日、少し上機嫌なの分かりますか? 久しぶりにお酒を飲んだんです」


 あはは、と彼は笑った。缶コーヒーで乾いた喉を潤す。喉を鳴らして缶コーヒーを一口飲んで、一息ついた。

 静かに、けれども楽しそうに話し出した。


「以前、バイトを始めたって言ったじゃないですか。清掃のバイト。あれでね、知り合った方なんですけど、若いのにしっかりしてらして、私なんかと仲良くなりたいって言ってくれましてね。それだけでも十分嬉しかったんですが、今日はその人に連れられてお酒を飲みに行ってきたんですよ」


 彼は街灯に目を細めながら空を見上げた。


「随分と久しくて。十数年振りに飲んだんですがね、いやあ、これが美味しくて。こんなにお腹が出てるのに、もっと出ちゃうなあって思うほど美味しくて。それで、久しぶりのお酒に感動していると、その人が言ったんですよ。アンタは不幸になってるって。本当はもっと幸せになれるんだって。でもね、私思ったんですよ。そんな風に言ってくれる方がいるんだから、そこまで不幸せでもないんだろうなあって。それに、今の私と妻と娘の関係も、きっと、何かほんの少し歯車がずれてるだけだと思うんです。私との間にある何か——ほんの些細な何かが引っかかっているだけで、きっとそれさえうまくいけばまた昔みたいに仲良くなれるんじゃないかなあって、思うんです」


 そこで彼は大きく出た自身の腹を叩いた。


「ひとまず痩せたら、何か変わるかなあって思うんですよ」


 もう一度、缶コーヒーを一口飲んでみて、噛みしめるように微笑んだ彼は、途端にあたふたとした。


「あ、いや浮気じゃあないですからね!? あんまり必死に否定してしまうと肯定になってしまうのかもしれませんが、本当に浮気じゃないんです! 私と友達になりたい、らしくて——友達になりたい、らしくて。友達に——なれたら、あなたみたいにいろんなことを話したりできますよね。そうしたら、確かに今よりもっと幸せになれるかもしれませんね」


 彼は、なんだか自分が少女漫画の主人公のようで笑ってしまった。


「四十過ぎのおっさんが悩むような内容じゃあないですよね」


 苦笑いをして、コーヒーを飲み干した。


「なんだか、何を報告しに来たんだかよくわからなくなっちゃいました。とにかく、今日は久しぶりに楽しかったんです。久しぶりに人と楽しく会話しました。素敵な女性です。気が強いですけど、本当に立派で、今時の女の子はあんな感じなんですかね。娘も、ああなるのかなあ。ちょっと楽しみになりました。

 にしても、久しぶりかあ。まだそんなに経っていないのに、久しぶりなんて思うようになったんですね。きっと、あなたに出会っていなかったら、去年の私なら、こんな風に思わなかっただろうに」


 彼は缶の山を見た。そこに掃除屋が座っているような気がした。

 そろそろ帰らなければと腕時計を見て、彼は「ああまずい」と青ざめた。笑っているが、冷や汗が体中を伝る。


「時間なんで、今日はもう帰ります。また来ますから。それじゃ」


 彼は足早にそこを後にした。今日は日曜日だ。世間は休みだけれど、彼にとっては妻と娘の迷惑にならないように家事をこなさなければならない、普段より難易度の高い生活が幕を開けていた。


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