第30話「謝罪の美学」(9)


 井伊を連れて葬儀場に来ていた。ここは私の仕事場であるが、れっきとした葬儀場でセレモニーホールも兼ねている。というのも、ここは私の祖父が建てたもので、葬儀屋を名乗る私の祖父はその昔、実際に葬儀屋を営んでいたのである。現役で仕事をしていたころは自ら墓石まで作っていたのだというのだから驚きだ。


 今では田舎に引っ込んで、隠居生活を楽しんでいる祖父であったが、その当時は敏腕葬儀屋だったのだとか。


 血筋というやつなのだろうか。なぜ葬儀屋を私に残して(という割には随分と時間をかけたが)田舎へ引っ込んだのかは分からないが、都内にこれだけ立派な葬儀場を設けてくれたのはありがたいことだった。


 その葬儀場の西の部屋に安置所がある。そこに数人の遺体が置いてあって、夜中に来ればそれはもう洒落にならないほど不気味であるが、最近はもう慣れた。そもそも人殺しを生業としているのだから悪霊の一人や二人くらい背負っていてもおかしくはない。


 井伊と共に在原の遺体を見る。一見して強烈な遺体だ。見るからに異常さが分かる。


 例えば——その全身。筋肉も萎み、骨と皮ばかりの出来の悪い干物のように干からびていて、肌の色も褐色に変色している。


 生前丈夫だったらしい白い歯も、存在感を放っていた髪も、ところどころ抜け落ちて面影はさほどない。水を求めたその顔は、口を大きく開けてムンクの叫びにも似た顔だった。


 井伊はアニキと呼び慕っていた在原の遺体を今一度見て、がたりと膝を打った。押し黙り、どこを見ているかわからない混濁した目をじっと見ていた。しかしそのうちこらえきれなくなって、在原の腕にすがりついて子供のように泣き出した。


 一人にしてやろうと静かにその部屋を出た。冷えた安置所と打って変わって、外の気温はまだ馬鹿に暑い。じわりと汗がにじんでくる。空高くある太陽にちりちりと肌が焼かれる感覚があった。


 壁にもたれて煙草に火を着ける。紫煙がゆらゆらと顔の前を登っていく。


 大切な者を亡くすというのは、心が裂けそうなほど痛ましいことだ。大切であると思えば思うほど、その痛みは強くなっていく。


 背を壁に預け、しばらくそうしていたが、どれほどか経て、井伊は安置所を出てきた。その目は真っ赤になっていて、ずるずると鼻をすすっていた。


 在原に間違いないか尋ねると、こくりと静かに頷いた。


 強い陽射しに目を細めていると井伊が口を開いた。


「アニキはさぁ、俺をこの世界で生かしてくれたんだ」


 ぼそりとしたものだった。


「俺はさぁ、馬鹿だし親も普通だしさぁ。なにやっても中途半端で、悪さも中途半端だった。だけどさぁ、アニキが救ってくれたんだ。この仕事くれて、俺が何かヘマするといっつも助けてくれんだよ。おかげで俺は徳川商会で若頭やれてんだけどさ。なのにさぁ、いっつも謝ってくるんだよ。こんなことさせてすまないって。俺は良いのにさ。アニキと仕事出来て嬉しいし、アニキとならなんでもやれる気がしてんのに。いっつも頭を下げんだよなあ。アニキはなにも悪くねえのに不思議だよなあ」


 わかんね、と井伊は首を傾げた。私にはアニキと呼ばれる在原のことがなんとなく分かったような気がした。きっと、優しい人物だったに違いない。


 どの世界にも、どの業種にも、そのようなやつが時たまいるのだ。そのようなやつのおかげで救われている人間だって幾分か存在しているはずだ。


 そんな人間ばかりいれば、きっと、私のような仕事をする必要もないだろうし、もっと生きやすいように思う。現実はそうではないので想像でしかないけれども。


 人通りの少ない正午過ぎの歩道を歩く。

 愛車であるフィアット500はまだ的屋の元で修理されているため、手元にない。おかげさまで今は健康的に徒歩での移動が多くなっている。


 アスファルトからも沸き上がる茹だる熱気に包まれて汗がじわりと滲み出てくる。まだ夏は居残り続けているらしい。


「なあ葬儀屋さん」井伊が立ち止まった。

「なんだ?」

「アニキたちのこと、よろしくお願いします!」


 空を切って頭を下げた。


「俺馬鹿だから、なんでアニキが殺されたのかも、あいつらが殺されたのかもわかんねえし、敵討ちしようにも見当もつかねえ。だけどさぁ、アニキは俺の大切なアニキだったんだ。あいつらはいい舎弟だったんだ。仲間だったんだ。だからさぁ、ちゃんと弔ってやりたいんだ」


 頭を起こしてこちらを見据えた。馬鹿にまっすぐな目をしていた。私は嫌いではない、馬鹿正直な目だ。


「だからさぁ、葬儀のほど、よろしくお願いします!」

「言ったろ? 葬儀は任せとけよ。ご遺族の予定を合わせて取り掛かりたいが、いないんだっけか」

「ああ、アニキは天涯孤独の男だった。だから、家族は俺たちだ」

「他の連中もか?」

「そうだ、みんな身寄りがねえやつばっかだ。だから……」

「なら、お前らで予定を決めてくれ。その日にお前らで見送ってやれ。その手伝いは俺に任せろ」


 井伊が再びがばりと頭を下げた。

 在原という男のことも、舎弟と呼ばれた男たちのことも、私は何も知らないが、目の前にいるこの男がよほど大切に想っていることだけはよくわかった。こいつ含め徳川商会が何をしてきたか、それは今は置いておいて、彼らの魂を葬送してやることを考える。


 全ての者に葬送を。

 それが私の在り方で、それが今は亡き友との約束。

 余計なことを残して逝ったものだとあいつに想いを馳せれば、またあの喫茶店に足を運んでいた。


 着いてきたのだからせっかくだし、と井伊にコーヒーの一杯でも奢ろうとしたら、井伊は徳川商会に葬儀の話をしてくると言って聞かず、そのまま走り去っていった。まるで学生のような元気さに頭が下がる。


 安住屋やすみやのドアを開けると、店主に来客を知らせるべく、ちりんと軽やかに鈴が鳴った。店主の落ち着いた挨拶に手を挙げて、カウンターに向かう。そこにすでに先客がいた。


 こないだ見た男だ。朝にエレベーターで会い、その後掃除屋の亡くなったあの場所にいた男が静かにコーヒーを飲んでいた(そりゃ喫茶店で騒ぐ馬鹿はいまい)。


 一つ席を開けて座り、いつものように店主にアイスコーヒーを頼んだ。

 店主がいつものように瞼を閉じて、柔和な表情でこくりと頷いた。


 一つ隣の席に座る男を見る。と、目が合った。お互いに気まずそうに頭を下げる。まさか目が合うとは思わなんだ。


 店主からアイスコーヒーを受け取って、喉を潤した。美味いし冷たくて心地いい。暑さに全身が融けるくらいだったが一口飲んで随分と汗が引いた。ほどけていく私の表情を見ていたようで、店主は微笑んで手元のコーヒーカップを磨き始めた。


 懐から煙草を取り出して口に咥える。火をつけようとして、近くに男がいるのを思い出した。そちらを見て、煙草を吸ってもいいかと尋ねると、どうぞどうぞと頭を下げた。こちらも頭を下げて煙草に火を着けた。葉と紙が焼ける音がして紫煙が上がった。


「こないだぶりですね」と男が話しかけてきた。ちらりとそちらを見ると、「すみません」と頭を下げられた。別に私は威嚇したつもりもなかったのに。


「謝らなくていいですよ。俺が悪いことしてるみたいだ」

「あ、すみません」


 また頭を下げられた。埒があかない。


「こないだぶりですね。ここにはよく来るんですか?」


 私がそう尋ねると、彼はええ、とだけ言って手元のコーヒーを飲んだ。外はまだ暑いというのにホットコーヒーを飲んでいる。私には考えられないことだが、知り合いに一人そんなやつがいた。


 他の誰でもない、坂口だった。風貌は違えど、なんだかそこにあいつを幻視した。あいつはどんなに猛暑だろうと汗の一つもかかずにあの分厚い黒コートを着て、首元までしっかり締めてそれでもってここに来ては注文するのはいつだってホットのグアテマラコーヒーだった。と言っても、私はここにはあまり来なかったので、私がそんな彼の姿を見たのは指で数えられるほどだったが。


「私は、その、知り合いがずっとここにいたので、その人に連れられてここにいるんです」


 そう言って彼は静かにコーヒーカップの中身を眺めた。

 私はその言葉を聞いて、こないだ缶コーヒーを持って現れたあの時を思い出した。


「坂口ですか」

「坂口。ですか? どちら様でしょうか」

「掃除屋、ですか?」


 そう尋ねた時、彼の顔色が変わった。


「ご存じなんですか?」


 掃除屋の方を知っている? 何者だ。

 こないだ会った時はまるでしがない中年男性といったところだったが。少し注意をしなければならないか。


「ええ、まあ」


 これからは言葉に気をつけよう。そして相手の出方を見なければ。


「ああ、そうですかあ。実は、私も今は掃除屋さんと同業なんです」


 彼がコーヒーを一口飲んだ。同業者だと?

 彼の雰囲気やその一挙手一投足を見るが、どう見ても一般人のそれでしかない。開かれた手のひらを見ても銃を握り慣れているような手ではないし、体つきだって、体格がいいのはきっと運動不足と栄養過多からくる肥満だろう。だとしたら擬態が上手いのだろうか。そうだとしたなら——おそらく彼はかなりの手練れだ。


 しかし、それであるならば——同業者であるならばこの男が坂口の亡くなったあの場所に固執するのもうなずける。坂口からそんな情報は聞いていなかったが……まだ成りたての可能性も否めない。


 だが、どうして自ら同業であることを晒すのだ。それはあまりにも危険な行為だ。井伊にしかり、若い連中は血気が盛んであるから突撃したくて馬鹿なことをするが、目の前のこの男がそういうタイプであるようには到底思えない。


「同業、ですか?」


 細心の注意を払い、平然と、平坦と、平静を装って尋ねてみる。ぼろを出すか? 見逃さないよう気をつける。


「ええ、最近バイトを始めまして」


 バイト? アルバイトがあるのか? 人殺しのアルバイト。

 少し記憶をたどってみる。確かそんな集団がいた気がする。しかし、あれはこないだ壊滅させたはずだ。舟屋のママと鍛冶屋さんに受注して、決行されたはずだ。


 まさか取り逃がしたか? いや、そんなはずはない。トップの男はこの手でしっかりと葬送した。今は焼かれた骨が遺族のもとにあるはずだ。


 替え玉だった……? そんなわけはない。替え玉がいたとしても、彼らがそんなことに引っかかることはあり得ない。何せプロだ。確実に仕留める殺し屋だ。そこは絶対の信頼を置いている。


 となると、考えられるのは新興の組織だ。

 だが、それでもやはり、自分からその組織の存在を口にするのはあまりにも不注意だ。


 この男は私をどうするつもりなのだ?

 いったい、油断させて何をする気だ?

 屋号会の何かを探る気か?

 息抜きに入ったこの店でこんなに心が休まらないことが起きるとは思わなかった。気を引き締めて、平常心を保持しようとアイスコーヒーを飲み込む。持ち上げたグラスには結露した水滴が張り付いていて、手のひらが冷やされる。


「自ら”掃除屋”と名乗るほどの腕前ですもんね、私はまだまだですが意外と性分に合っているかもしれなくて、最近は楽しくて。始めてよかったなと思っているんです」


 彼は何かを思い出すように宙を見上げた。

 なぜ、彼はこんなにも充足しているような顔なのだ。落ち着け、冷静にいろ。あまりにも普通だからわからない。


 分からないことが怖い——けれども、だからと言ってひいてはいけない。


 しかし、何か違和感がある。何が、どこに、あるのか。


「始めて良かったと思うんですか?」


 彼はこちらを向いて、にこりと笑った。

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