第31話「謝罪の美学」(10)
「ええ、良かったと思いますよ。健康的になりました。あ、これでも少しは痩せたんですよ? 服のサイズは一つ下がりましたから」
彼は樽のような腹に巻かれたベルトを見せてきた。確かにぶかぶかになった穴より奥の穴で止められている。
私はふと、思い違いをしているのではないかと思った。
「清掃のおかげで毎日動き回れて運動になるんですよ。体の掃除まですることになるとは思いもしませんでした」
上手いことを言ったような顔をした。茶目っ気があるらしい。
「どちらで仕事をなさるんですか?」
「だいたいはオフィスビルです」
もしかして、というか。もしかせずとも。
この男は掃除屋は掃除屋でも、清掃業の掃除屋なのではないだろうか。
「清掃の仕事は大変でしょう?」
「確かに大変ではありますけどねえ。さっきも言いましたが性分に合っているみたいで。一生懸命に掃除して、フロアが綺麗になるのを見るのは清々しくていいものですよ。最近は自宅の掃除にも嵌ってまして。なんだか前に比べて娘の機嫌もいいんです」
彼は頭をかいてはにかんだ。
「娘さんがいらっしゃるんですか?」
「ええ、もう高校生になります。反抗期だったんですけどね、この頃家が綺麗になっているものだから、ありがとう、なんて言われまして。娘にお礼を言われたのは何年振りだろうなあ」
きっとそうだ。この男はただの一般人だ。
我ながらすぐに見抜けないとは情けない。
だったら、彼は一体何者だろうか。坂口に仲の良い一般人がいるとは想像だにしなかった。
「そういえば、掃除屋さんとは——ああいや、坂口さん、でしたっけ? どういった関係で?」
彼が身を乗り出すようにして聞いてきた。
「昔なじみです。竹馬の友というやつですよ」
「そうですかあ」
そうですかあ、ともう一度彼は言って、手元のコーヒーカップを指で摩った。なんだかうれしそうだ。
「あなたこそ、あいつとはどんな関係だったんです?」
「話し相手です」
「話し相手?」
意外だ。あの口数の少ない坂口にそんな相手がいるとは思わなかった。
私といてもあまり話さないやつだったが、というかむしろ、私と坂口は付き合いが長いからああだこうだと話さずとも考えていることが分かったから、最期の方は会話という会話もろくになかった気もする。
だからこそ、少し、ほんの少しであるが嫉妬のようなものが心の中にあった。我ながら気持ち悪い。口角が変に上がった。
「坂口はどんな話をしてました?」
「なんともないことです。他愛もないこと。ほとんど私が話し通しでしたけどね」
彼はコーヒーカップを人さし指で叩きながら話した。
「私が仕事で行き詰ったりして、その愚痴を嫌な顔もせずに聞いてくれました。まるでカウンセラーみたいでしたよ。彼と話していると自然と心が安らぐと言いますか。まるで彼からマイナスイオンが出ているかのような。本当に、何度となく助けられました。だから……」
そこで彼は話すのをやめた。やめて、余っていた冷めたコーヒーを飲み干して、かちゃりとコーヒーカップを置いた。
そして腕時計を確認すると、しまった、というような顔をして、財布を取り出した。随分とボロボロの財布だ。小銭入れから小銭が落ちてしまいそうなほどの穴が空いている。買い換えたほうがいいんじゃなかろうか。
急いで立ち上がると、代金をコーヒーカップの隣に置いて、ドアに向かった。ドアを開けて、そこで立ち止まった彼はこちらを見た。
「また会えるでしょうか?」
「会えるでしょう、何せご近所さんなんだから」
というと、ああそうだったと笑った。それから、
「今度は掃除屋さんのこと、教えてください」と言った。
「俺もあいつがどんな話をしてたのか、もっと聞きたいです。特に俺のことをなんて言っていたのか」
彼はあははと笑った。
「あなたのことはとても優しい人だと話してましたよ。では、私はこれで。マスターさん、ごちそうさまでした。また来ます、では」
一礼して彼は足早に去って行った。軽快な鈴の音が心地よかった。
「彼が話しているのを久しぶりに見ました」
彼の姿が見えなくなって、少し経ったころ、店主がそう話した。
「坂口さんが亡くなってからも来店されているのですが、いつもその席でグアテマラを頼んでは静かに飲んで行かれます。あ、喫茶店ですから元々騒ぐこともありませんが、彼が話しているのを最後に見たのはちょうど、最期に坂口さんが来店なさった日でしたから」
店主はコーヒーカップを磨き終えたようだった。綺麗に並べたカップとは別の、少し大きなマグカップに氷を入れて、そこにアイスコーヒーを注いだ。
「私も飲んでよろしいですか?」
「どうぞ」
「どうも」
店主はごくごくと喉を鳴らしてアイスコーヒーを飲む。
「いやあ、暑い日はアイスが身に沁みますね」
「ええ、俺もそう思います。坂口はホットの方が身に沁みると言っていましたが」
「そうですか」
店主は遠い目をした。
あいつは私の知らないところで、一体どんな人物だったのだろう。
誰と顔を合わせ、誰と話し、誰と時を過ごしたのだろう。
寡黙で、どうしようもないお人よしは、一体あの彼とどんな時間を過ごしたのだろう。
結局名も知らないままであったが、何せご近所さんだ。また会うことになるだろう。
私はコーヒーのあとに、煙草を一本くゆらせて、静かに過ごした。
怪異的な、奇怪な殺人事件が起こっている最中、こんな出会いがあるのは心に優しかった。
煙草を吸い終えた私も、代金を置いて店主にまた来ると伝えて店を後にした。
炎天下の外は思わず文句の一つも漏れるほどだった。先ほど涼んだばかりだというのにもうすでにまた涼みたくなる。もう少し店にいればよかった。
それでも足は先に進めなければならない。今日は用事が多いのだ。
腕時計が示す時刻は十三時。そろそろ、彼らの元に行かなければ。
けれども歩かなければならないのは酷だ。あまりにも酷なので、迎えを呼ぶことにした。
携帯を取り出して、即刻的屋を呼ぶ。電話を掛けながら適当に歩いていると、すぐそこに小さな公園があった。昼時なのであまり人はいない。ちょうど木陰になっているベンチを見つけたのでそこに腰かけた。
どれほどかコール音を重ねたのちに、的屋はめんどくさそうに電話に出てきた。
『なんだよ。今忙しいんだ』
電話口からガチャガチャと鉄のぶつかる音がする。
「迎えに来てくれ」
『ほか当たれ。俺ァ今忙しいっつってんだろ』
的屋がこれみよがしに音を立てる。騒音だ。耳から携帯を遠ざけた。
『俺ァ今おめえのフィアットちゃんを直してんだよ。遅れてもいいのか?』
「遅れてもらっては困る。が、今この炎天下の元走り回るのも困る」
『電車でも使えばいいだろ』
「俺はあの人込みが嫌いなんだ」
『じゃあなんで東京に住んでんだよ……』
「便利だからだ」
人込みは嫌いであるが、人を見るのは嫌いではないし、そもそも都会はいろいろと便利だ。私のような業種の人間が隠れ潜める利点もある。
的屋はこちらの気が滅入るような盛大なため息をついた。それからわかったよ、と言った。ありがたい。
『どこにいるんだ?』
「安住屋から二十メートルほど駅に向かったところにある公園だ、そこのベンチで休んでいる」
『へーへー、んじゃ、今から向かうから、そうだなあ、あと十分くらい待っててくれ』
了解した、と言って電話を切った。
木陰になっているここは少し涼しい。しかしそれでも安住屋に比べれば暑い。こうなるならまだ店に残っているべきだったと改めて思った。
ぼーっとそこから遊具を眺める。滑り台やブランコがある。その近くに砂場があって、時が来れば子供たちはここで遊び呆けるのだろう。
懐から煙草を取り出して、一本咥える。
そして奇怪な殺人事件について考えることにした。
被害者たちは全員妙な死に方をしていた。
あまりにも人間離れをしている。そんな殺し方をする人物を想像するに、あいつではないかと思わざるを得ない。
——”万事屋”。あいつはそう名乗っていた。地獄に堕ちても足りぬほどの要注意人物。情報屋ですらその情報をあまり持たないでいたあの人物だ。情報屋がくれた情報は万事屋によって殺されたであろうと彼が断定した被害者の情報だけだった。それ以外の万事屋に関する身辺情報はまるでない。どういう人間なのかまるで分らなかった。
以前、情報屋にもらったその情報を眺める。
坂口の殺され方は首をすっぱりと撥ねられていた。
他の万事屋に殺害された者たちはどうか。
例えば——
例えば——
例えば——
気持ちが悪い殺され方ばかりだ。が、どうだろうか。
一見、まるで関連性がないようでいて、どこかにつながる部分はないか。
短くなった煙草を携帯灰皿に押し込んで、もう一本煙草に火を着ける。
万事屋——いわゆる何でも屋。
殺し屋としての——万事屋。
殺し屋としての——何でも屋。
誰でも殺すから万事屋。
そうだろうか。
少女偏愛の男は、少女向けの服を着て死んでいた。
野良猫殺しの女は、猫のような風貌で死んでいた。
金に溺れた男は、金にまみれて溺れ死んでいた。
そして、首を撥ねる掃除屋は——首を撥ねられて死んでいた。
万事屋はその標的の犯した罪を象徴とした殺害方法を取るのか。
つまり、様々な殺害方法を取るから——”万事屋”。
しかし。
それが分かっても、どうしろというのだ。殺し方が分かったと言って、あいつに近づけるわけじゃあない。結局先に進まない。
いや、待てよ。だとしたら、在原たち——徳川商会の面々で殺された人物は薬物の販売をしていたのだろうか。だとすればつじつまがあう。
やはり私たち屋号会と、井伊たち徳川商会の敵は同じく万事屋だった。
それだけわかれば、ひとまずは充分だ。
あとはどうやってやつを追い詰めるか。それだけだ。
先に進まないことはない、進めるしかない。きっといつかぼろを出す。それを待つ。
と、遠くから低いエンジン音が響いてきた。的屋が来たらしい。
早くクーラーの効いた車内に入りたいものだ。
公園の入り口に停車した車を見て愕然とした。
「おい、的屋」
「なんだよ、迎えに来たぜ」
咥え煙草で的屋は早く乗れと手で促した。
促されるが、少し、がっかりして足が重い。
「なにしてんだ。置いてくぞ?」
「お前、暑いって言ったろ」
「ああ、だから急いで来てやったんじゃねえか」
何で不機嫌になってやがると続けた的屋には申し訳ないが、私の想像と違っていたのだから不機嫌にもなる。
「オープンカーじゃねえか」
「今日はモーガンの気分だったんだよ。早く乗れ。とっとと行くぞ」
「……ああ。……ありがとうございます……」
うなだれながら車に乗り込んだ。発進した車内(というか車外)で感じるなびいた風は生暖かくまるでうっとうしかった。
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