第32話「謝罪の美学」(11)
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彼がデスクワークをしているときだった。年下の上司がそっと彼の背に立って、彼の肩に手を置いた。嫌に下卑た笑い顔を隠すように努めて、上司は彼の耳元に顔を近づけた。
「少し、話があるんだが」
それだけ言うと、彼の肩をとんとんと二度叩いて、上司は何事もなかったかのように去って行った。彼の表情は優れない様子だ。
隣の席でキーボードを叩く女性社員に大丈夫かと尋ねられた彼は、いつものように頭を下げて、席を立った。上司である
彼の耳に嘲笑にも似た雰囲気の声が聞こえてくる。実際、嘲笑されて然るべきようなことをしている。彼は自嘲して微かに口元を歪ませた。
自分がしていることは、正しいことではない。それくらいわかっている。けれども、彼には、それを否定する力も拒絶する力もなかった。
とどのつまりが——”土下座屋”なのだから。
フロアの一角を区切って出来た課長のデスクに入って行く。クリーンな雰囲気を、ということで用意された透明な壁をノックして一礼する。
この壁の向こう、ついさっきまで自分がいたフロアから見る自分の姿はどうだろう。また怒られて頭を下げているように見えるだろうか。それだから好都合だと仁見は言うだろう。自分だってそう思う。
「失礼します」
彼が頭を上げたとき、仁見はちらりと彼を一瞥して、手元にあった資料を手に取って、人さし指でたたき出した。きっと、他の社員からは課長が彼のミスを問いただしているように見えるに違いない。
「どうしたんですか、先輩。今月の分がまだじゃないですか」
「すみません」
「頼みますよ、あなたがこけちゃあ仕方がないんだから」
人を馬鹿にしたような笑い顔で仁見は彼の顔を見た。仁見の言葉に彼は口ごもってしまう。
「どうしたんです?」
「あ、あの」
——もうやめにしませんか。そう言えたのなら、彼もずいぶんと気が楽になっただろう。けれども仁見の威圧的な視線を受けると、その言葉は出てこない。心の中で言うだけだ。いつもそうだ。その代りに出てくる言葉が——
「……すみません」
彼は頭を下げた。その姿を見て、仁見は一人悦に入る。優越感に浸って、首をくるりと回して鳴らした。
「先輩。先輩にはもったいないくらいの奥さんと娘さんがいますよねえ」
仁見が汚い笑顔で彼をあざ笑う。彼が下げた頭をがばりと上げた。
「二人に何をする気ですか……!!」
「何をするとも言っていないでしょう。そんなに青ざめて大げさだなあ。先輩には妻子がいることを”ただ”確認しただけですよ」
「お願いします、私はなんでもやりますから。だから二人を巻き込まないでください」
彼は懇願した。床に額を擦り付けるように——土下座をした。何度となく、頭を床に着けた。
それを止めるかのように仁見が椅子から立ち上がり、彼の隣に膝を下ろした。そして彼の肩を支えるように手を置いて、耳元に顔を近づけた。
「じゃあ、なんでもしてくださいよ。先月は出来たんだ。なのに今月できないわけがないでしょう」
彼の耳に仁見の悪意に満ちた息がかかる。吐き気を催すほどの毒気だ。
「娘さん、大学に行きたいんでしょう? 奥さんはエステにご執心だ。先輩の稼ぎだけじゃ足りなくなってきた。だからバイトを始めたんですよね?」
ごくりと彼の喉が鳴った。嫌な汗がこめかみを流れていく。何もしていないのに息が上がりそうだ。鼓動が妙に高鳴っていく。胸騒ぎだ。
この男には自分の弱みを握られている。どうしようもないほど狡猾に、自分は駒にされている。彼のこれから先の人生は、傍から見ればダメな社員に寄り添ってやる優しき上司に見えるこの目の前の悪魔に握られている。
「先輩、あんたはただ俺の言うことを聞いてりゃいいんだよ。実際、先月は上手くいったろ? だからあんたにも金が入った。何も心配することはないですよ」
彼は素早く後ろを振り返り、他の社員に聞こえていないか確認した。だが、どうやら他の社員たちはもう彼に興味はないらしく、それぞれの仕事をしている。
胸を撫で下ろして、彼は振り向きなおし、ちらりと仁見を見た。震える声を押し出す。
「あといくらいるんですか」
「そうですねえ」
仁見は考える素振りをして、彼にだけ見えるように手を開いた。
「五、五百……」
「桁が足りないですよ。五千」
「ご、ごご五千!?」
彼の頭が真っ白になりそうだった。目の前の男は何を言っているんだ。
「おいおい、先輩。急に怖気つかないでくださいよ。俺も危ない橋を渡っているんだ。いいですか、何があろうと、あんたはもう、共犯者だ」
共犯者。
その言葉が彼の心臓を握りつぶすように体に沁み込んでくる。息が出来なくなる。けれども。愛する家族のためだ。もう、なりふりは構っていられない。もう、まっとうな道から足は踏み外してしまったのだ。
「お互い、金が要り用でしょう? 先輩には話しましたよね。お袋の病気を治すためには給料だけじゃあ足りないんですよ」
仁見がわざとらしくうなだれてみせた。
「それとも先輩は、そんな事情を話しても胸は痛まないような鉄血ですか?」
「それは……でも、五千はさすがにやり過ぎじゃないですか?」
「違いますよ、先輩のところも合わせて五千です。二つに割れば二千五百。それだけあれば俺も、先輩も幸せになれるでしょう?」
泣きそうな顔をしている彼に、仁見が声色を低くして、
「それに、あのことを言われて家族の仲が悪くなるのも嫌でしょう?」
とささやいた。
それから、エールを送るかのように背中を叩かれた。
あのこととは、清掃のアルバイト先の同僚である間島のことだ。
あの日、間島に連れられて飲みに行ったその日、運悪く仁見がその姿を見ていたのだった。
何もやましいことはないと言っても、仁見のスマートフォンに保存された若い女に連れられて困ったように笑っている彼の姿は、浮気現場のように見えて仕方なかった。
ようやく最近、掃除屋を亡くしてからの色あせた生活にまた、色が付き始めたというのに、どうして、どうして自分はこんなにつらい人生を歩むのだろう。
しかし、それでも。家に帰ればきれいな妻がいて、可愛い娘がいる。最近は妙に優しくなってきた。自分の努力がようやく報われてきたように思えて、世間にとってはほんの少しの小さな幸せであったけれど、彼にとっては充分すぎるほどのものだった。
だから、仁見の虫のいい話に乗る他ないのだ。きっと、もっと喜んでくれるだろう。新婚の頃のような、娘が小さな頃のような、あの温かい家庭にきっと戻れる。きっとそれ以上の家庭が持てる。
仕事が大変だという愚痴を聞いてくれる友人も新たに出来た。自分とは親子ほども歳が離れているけれど、とても出来た子で酒癖は悪いが信頼できる仲間でもある。
妻と娘に勘違いさえされなければ。つまり仁見がそのことを彼女たちに言わなければこの幸せは壊れることはない。
それに、彼は、亡くした友人の旧友にも出会えた。煙草を吸う姿が様になる色男だ。
だから、彼はやるしかない。もう、逃げることは出来ない。
一度味わってしまった幸せを逃すことは苦痛だから。
一度味わってしまった優しさを失くすことは苦痛だから。
自分が汚れていくつらさなど、自分が我慢をすれば済む話だ。
妻にはいつまでも綺麗でいてほしいし、娘には良い大学に行ってほしい。
歳の離れた友人とはまた一緒に酒を飲みかわしたいし、掃除屋の旧友の彼とはもっと知り合いたい。
その願いの強さに比べれば、今、自分が置かれている状況など、自分が犯している罪など、罪など、罪など、罪など。
彼は柔らかそうな背もたれに深く背を預けた仁見を見上げた。
「今月は、いくらでしょうか」
ようやくか、と言った様子で仁見はデスクに肘を乗せて顔を前に出した。
「三百」
「……三百」
「そう、三百。その内半分は君の取り分だ」
彼はすくりと立ち上がって、静かに自分のデスクへと戻って行った。顔色が悪いので、隣の女性社員にまた心配をされたが、彼はいつものように頭を下げた。
それからキーボードをかたかたと叩き始める。外回りで足を運んだ各家々の契約内容をまとめている。学生向けの教育ソフトの販売を生業としている”あかるみらいコーポレーション”で彼は営業担当だった。
今日は一軒だけ、契約にこぎつけることが出来た。その家の契約内容を書類にして課長に提出しなければならない。そして、その書類提出に合わせて、指定された現金を仁見に渡す。
書面を作成しながら、脳の片隅で、ぞっとするほど冷静に横領の手順を復習している自分がいた。
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彼女は年齢の割に美人だった。肌も二十代のようにきめ細やかで、スタイルも良い。すらりと伸びた手足、出るところは出ているメリハリのある体形。娘と二人で買い物に出かければ、親子というより姉妹のように見えた。それほど仲が良いのであるが、知り合いの親子で出かけるというときに、彼女の知人たちは向こう数年、旦那の姿を見たことがない。
離婚したのではないか、という噂が流れるほどにだ。
そして、その噂を真に受けて、求婚する男が後を絶たなかった。
彼女はおそらく、その男たちの熱にもほだされていたのだろう。
結婚してからもう十五年と少しだが、旦那と過ごした時間はそれほどのものじゃない。けれども不満はほぼない。自分がせずとも料理や掃除などの家事は全部やってくれる。それに自分が綺麗でいるために必要な維持費を用意してくれる。
さも自分のために綺麗でいてくれるのだと勘違いをしながら。それは彼女にとって好都合だった。思えば付き合いたての頃からそうだった。根が真面目な旦那は、彼女の努力や行動をおおよそ自分のためだったと勘違いをしてくれる。嘘をついても騙されてくれる。
付き合い始めた当初はそこが可愛かった。しかし時が経てばその想いも移ろいゆく。今ではもうそうは思わない。ただただ間抜けな男だと思う。
いつものエステに行き、肌に栄養を与えて、夜になれば知人に会う。相手は懇意にしてくれる殿方だった。
少し前から旦那は残業が増えたと言って帰ってくる時間が深夜になった。それもまた好都合だった。
今、不倫をしている彼は旦那と違ってどこか危険な匂いがして胸がざわつく。年甲斐もなく冒険心がくすぐられた。話だって上手だし、女の扱いが上手いので、自分がまだ女であると思えて幸せだった。
それに、旦那以上に羽振りがよかった。どこかへ行けば全て支払ってくれるし、会う度に色々なプレゼントをくれる。
正直、もう旦那には愛想が尽きていた。ただのATM兼使用人と言ったところだった。ATM兼使用人としては充分な働きをしてくれている。彼女にとってはそれで十分だった。
だから、今日もまた彼女は家を出る。そして夜になれば彼に会って、その身をゆだねる。一時の幸せと刺激に溺れていく。
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