第33話「謝罪の美学」(12)
彼が仕事をしていると、後ろに立った仁見がそっと彼の肩を叩いた。
短く「ちょっと」とだけ言うとすたすたと自分のデスクまで戻っていく。肩を叩かれてびくついた彼を見て、周りにいる社員たちは小さく笑った。
そんな周りをよそに、少し分厚い茶封筒を書類に隠して、静かに席を立った。くるりと丸められた書類の中にあるその分厚い封筒は周りの彼をあざ笑う社員たちには見えない。少し分厚い封筒の中身は、以前仁見に言われてどうにか手に入れた金の束だった。
気分を沈ませながら仁見のもとへ向かう。
平静を装って、仁見のデスクまで行き差し出した。
仁見は書類を開いて中の茶封筒を膝の上に置いた。それから器用に書類をデスクの上に並べて読んでいる振りをしながら机の下では札束を確認している。確認し終えた仁見は卑しい笑顔でその半分を自分の鞄に入れて、もう半分をそのまま彼に返した。
「やればできるじゃないですか。これで、奥さんも喜びますね」
仁見の軽口に何も言わず、頭だけを下げて足早に去ろうとした彼を見て、仁見の中につまらない感情が生まれた。彼の背中に声をかけた。
「ああそうだ、ちょっと先輩」
何か、と彼が振り返ると、仁見が手招きをしている。近寄ると、もう少しと仁見がさらに手招きをした。仁見はちらりと辺りの社員たちがこちらを見ていないかを確認すると、誰も見ていないようだったので、小さな袋をデスクの上に置いた。
「なんですか、それ」
彼が尋ねると仁見はぐるりと首を回した。肘をデスクの上につき、両手を顔の前で組んだ。
「実はね、どうも俺たちのことを勘ぐっているやつがいるんですよ」
「社員にですか? なら——」
やめませんか、という言葉は飲み込んだ。目の前の仁見が首を横に振った。
「外部です。だから面倒でね。もしこのことが公になってしまったら俺もそうですが、先輩、あんたもあんたの家族もお終いだ。それは困るでしょう」
彼は震えるようにうなずいた。愕然とした。悪いことはするもんじゃない——そう彼の父に幼いころ口酸っぱく言われていたことを思い出す。どこかで誰かが見ているのだから、悪いことは絶対に明らかになる。だから悪いことはするもんじゃない。そんな父の言葉通りになりそうだ。
「そこで、先輩に頼み事なんですが、そいつを殺してくれませんか?」
え、と彼は素っ頓狂な声を出した。
「こ、ここ殺し? なんでそんな話になるんです?」
彼は泣きそうになりながら言った。絞り出した声は震えて仁見が聞き取れたか定かではない。
「どうして私が……無理ですよ、そんなの。や、やめればいいじゃないですか。もう、引き時なんですよ、だから、その、もうやめてしまえば、自首してしまえば、そうすれば」
突然のことに心臓が跳ねたが、跳ねたおかげでようやく言いたいことが言えた。だが、仁見がそれを遮って強く言う。
「無理を言っているのはわかっています。でもね先輩、俺たちはもう犯罪を犯してしまったんです。今更やめたって、その犯罪は残る」
「ですから、その犯罪が軽度なうちに……」
仁見が大きくため息をついた。
「相手が問題なんですよ。俺たちがやっていることを食い物にする気なんです。この横領を脅迫の材料にして脅そうとしているんですよ。先輩、考えても見てくださいよ、先輩が捕まったらどうするんですか? 奥さんも娘さんも、軽蔑するだろうなあ。それどころか、娘さんも奥さんも世間に白い眼で見られるでしょう。なにせ犯罪者の家族ですからね」
それはあなたもだ、と彼は思った。それを悟ったかのように仁見が目を伏せた。
「俺もそうです。病気の母を救いたかった。けれどもそんなの、法の前ではただの言い訳に過ぎない。だから俺たちは隠し通さなければいけないんです」
「でも、だったらなんでこんなことしたんですか。私は普通に過ごせればそれでよかったのに。バイトでもなんでもして、それで賄おうと思っていたのに」
「巻き込んでしまったことは悪く思っています。でも、バイトだけでまかなえたんですか?」
ぎくりとした。確かにそうだ。娘の学費もそうだが、妻の生活費で彼の給料は消えていく。最近はそれに拍車がかかって、バイトをしただけじゃあ足りなかっただろう。けれども、犯罪の片棒を担いで、今のように苦しむくらいなら、自分の生活が苦しくて歯を食いしばっていた方がよかった。もう過ぎてしまったことだから、何を言っても変わらないけれども。
「だからって、殺しはいけないでしょう? これ以上罪を重ねてはいけないでしょう? あなたが言っていることは矛盾している。家族のことを言って、それなのに私を犯罪者にして、これ以上さらに罪を背負えなんて。娘たちにどんな顔をすればいいんですか」
彼はもう泣いていた。声は上ずっていて、顔はぐしゃぐしゃになり始めていた。
「先輩。だから、殺さなきゃいけないんです」
「無理ですよ。私はただの社員です。どうにかあなたが言うからお金は用意できました。でも、殺しなんて無理です。人を殺すなんて」
「無理は承知です」
「そもそもおかしいじゃないですか。なんで急に話が人殺しに飛躍するんですか? おかしいでしょう」
「俺もそう思います。まさか、こんな風になるなんて思っていなかった」
仁見が珍しく声を沈めている。本当に想定外だったように思える。彼は、ただ首を横に振る他なかった。
「だったら、あなたがやればいいじゃないですか! なんで私なんです? お金をどうにか用意するのは私の方が立場上やりやすいというのはよくわかりました。でも、殺しは違うでしょう?」
他の社員に聞こえないように、声を噛み殺して彼は叫んだ。悲痛な叫びだった。
「でもね先輩、そいつを殺さなければ、そいつはきっと奥さんと娘さんにも手を出しますよ」
それは困る、それだけは嫌だ、と彼は強く思う。けれども犯罪をこれ以上重ねるのも嫌で仕方なかった。だが、大切な家族に危害を加えられるくらいなら……と考える自分もいる。
「先輩、俺が手を下せない理由は、そいつが俺の知り合いだからなんです。実は、俺の昔馴染みのやつが新聞社に居まして、そいつがどうやらかぎつけてきたんですよ。ですが運がいいことに、先輩のことは知られていない。だから、これを使ってください」
仁見がそう言ってデスクの上の袋を彼の方に押しやった。
「とある知り合いが作ってくれた毒薬です。大丈夫、使用してもばれません。なんでも特殊な毒だそうで、検出されにくいんだそうです。だから先輩に足がつかないようになってます。俺を助けてくれとは言いません」
仁見が彼のことをまっすぐに見た。その目にはいつもの侮蔑や嘲笑の類はない。
「家族のためにそいつを殺してください。そうすれば、万が一先輩が捕まってしまったとしても、家族に危害が加えられることはないでしょうから」
彼は愕然としていた。何か口に出そうとして、口が空気を吐き出して動くけれども声にはならなかった。はかはかと息が漏れる。
仁見が先ほど鞄に隠した札束を一つ取り出して、それをデスクに置いた。
「ただでとは言いません。これでどうですか? 家族のことも守れて、金も入る。先輩はただ、そいつを呼び出して飲み物にそれを加えて飲ませればいい。それで終わりです」
「私に、できますか」
彼がつぶやいた。うつむく彼を見て、仁見がにたりと口角を歪ませた。すぐに表情を抑えて、「ええ」と頷いた。
「できますよ、問題ありません。これで先輩は誰にも捕まらない。俺たちの犯罪は誰にもばれない」
そうして彼は、犯罪をまた一つ重ねることになった。痛む心をひた隠して、家族のために命を削る。馬鹿げた話だと自分でも思う。しかし甘言に心を揺らされ、結果として今、欲しくてならなかった家族の幸せを掴んでいる。この幸せを壊したくはなかった。
彼は仁見からその小さな袋に入った粉薬を受け取って、自分のデスクに戻った。
仁見が言うには、仁見の犯罪についてタレこみをするから会いたいと、標的に伝え、そしてその男に毒薬を飲ませればそれで済むとのことだった。
がたがたと冷や汗をかきながら彼は仕事をこなした。その最中に標的にメールを入れる。仁見からもらったメールアドレスに、その旨を書き込んで送信した。すると即座に返事が来た。どうやら会ってくれるらしい。ひとまず第一段階は成功した。
明日。明日には決行する。やらなければ家族が傷つくことになる。それはどうしても止めなければならない。覚悟は決めた。
————◇◇◇————
昨日は今日のことを考えると、まるで眠れなかった。清掃のバイトを終えて家に着くと、何も知らない妻はぐっすりと眠っていた。時刻は深夜の二時を回っていたので当たり前だが。
しかし娘の部屋からは明かりが漏れていた。もう随分と遅い時間なのに。意を決して娘の部屋のドアを数回ノックする。中から娘がドアを開けて「何」とささやいた。
ドアを開けられると思っていなかった彼は戸惑って目を泳がせた。その姿を見て娘がもう一度「何」と尋ねる。
「いや、その、もう遅い時間なのに明かりがついていたからどうしたのかな、と思って」
娘が嘆息を吐いて、「勉強」と短く答えた。
「そうか、勉強か。偉いな。お腹空いてないか? 夜食作ろうか?」
娘は少し思案して、「軽く」と答えた。彼は嬉しくなって、「そうかそうか」と微笑むと、台所へ向かった。変なの、と娘はドアを静かに閉めて机に向かう。
彼は保温されていたご飯を茶碗によそって、ふりかけをかけて混ぜご飯を作った。それを大きな手で三角に握っていく。おかかのおにぎりと、のりたまのおにぎりを作って、皿にのせた。それから娘の部屋の前に向かって、ドアをノックした。
ドアが開いて、娘が顔を出した。
「おにぎり、ふたつ作ったから。勉強、頑張れよ」
彼は皿を差し出して、微笑む。娘はまっすぐに彼を見ず、ちらちらと見て、「ありがと」と聞こえるか否か、小さく言った。
彼は驚いた。まさか、またありがとうと言われると思ってもいなかった。
「入れば?」
娘が彼にそう言う。え、と彼は目を丸くした。
「ここで話してたらママ起きるかもだし」
「ああ、うん、お邪魔します」
娘に促されて彼は娘の部屋に入った。何年振りだろうか。幼いころの部屋と随分と様変わりしている。娘が好きなのであろう男性アイドルのポスターが壁に貼られていたり、自分の見知らぬぬいぐるみがあったりしてまるで浦島太郎の気分だった。
娘はさっそくおにぎりを食べていた。
「美味しい」と小さく言った。彼はまた嬉しくなった。
「よかった」と自分に言うようにつぶやいた。
娘の部屋に入ったものの、何を話したらいいのかわからないし、どうしたらいいのか分からず、ドアの前で立ち尽くしていると、娘が「最近仕事忙しいの?」と尋ねてきた。
答えずにいると、娘が机から後ろを振り向いて、「帰り遅いじゃん」と言ってきた。
「ああ、まあね。忙しいんだ。家事があまりできなくてごめんな」
彼が苦笑いをして頭をかくと、娘が「別にいいのに」と言った。
「だってパパ仕事忙しいんでしょ。なのになんで家事までしなきゃいけないわけ? ママだって家にいるのに。意味わかんない」
「でも、ママも忙しいんだよ」
「何が?」
「その、綺麗になるためというか。一生懸命努力しているんだ。だからパパが」
「いいよ、別に。家事くらい私もできるし」
彼は優しく首を横に振った。
「お前は勉強があるだろう? 部活も始めたんだから。だったらそっちを優先したほうがいい」
「なんで?」
「高校生活は一度っきりだ。楽しく過ごしたほうがいい。家のことなんて考えなくていいんだ。パパがやるから。お前は楽しく過ごすことだけ考えなさい。たくさん友達を作って、たくさん遊びなさい。勉強もたくさんしなさい。その方がパパは嬉しい」
彼は噛みしめるようにそう言った。娘は彼の顔を見て、「まあいいけど」とだけ言った。それからまたおにぎりをもくもくと食べ始めた。
娘と久しぶりに話したような気がする。中学生に上がる前には会話という会話をした記憶がない。実に四年振りくらいに話したように思う。娘が食べ切ったおにぎりがのっていた皿を受け取って部屋を後にするとき、娘が、パパ、と呼び止めた。
振り返ると、娘が「おにぎり美味しかった。ごちそうさま」と恥ずかしそうに言った。「お粗末様」と彼は言って部屋を出た。閉まったドアに娘は「ありがと」と呟いた。
娘と話したおかげで決心が更に確固たるものになった。守らなければ。こうして娘とまた話せるようになった。この時間を守らなければ。
結局一睡もできなかった彼が指定された喫茶店に着いたのは陽が傾いて、客足が遠のいたころだった。チェーン店のこの喫茶店は回転率が高いようだが、夜空に星が出始めた十七時を回った店内に客はまばらで、空席に腰を下ろすのは簡単だった。
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