第34話「謝罪の美学」(13)
標的は彼より先に来ていた。
まばらな店内で、目深に野球帽を被ってその男は椅子の背もたれにどっぷりと体重を預けていた。
その向かいに彼は来て頭を下げた。先に来ていた男が立ち上がり、「あんたが仁見の部下か」と尋ねてきた。
恐縮しながら彼は頷いた。差し出された右手を握り返す。
席に深く座った男と対照的に、彼は浅く腰かけて背筋を伸ばしている。緊張で体ががちがちに固い。
「それで、情報ってのはなんだ」
男が懐から煙草を取り出して乱暴に咥えた。中々煙草に火がつかない。男も緊張しているらしい。
「あの、彼が横領しているという話です。本当にそうなんです」
「それはわかってるよ。いくらだ」
男はようやく火が付いた煙草から紫煙を深く吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
「ろろ、六百万です。月に三百ほど横領しています」
「それは確かな情報か?」
「確かです。この目でしっかり見ました。も、もし信じられないならここに証拠があります」
彼はそう言って、鞄から資料を差し出した。その手は震えていた。
そして脳裏に、本当にこのまま資料を渡して警察にでもリークしてもらえたらとも思った。この人を殺さずに、このまま帰ってしまえば——
昨日の娘との会話が思い出された。久しぶりに話すことが出来た。今日、帰れば——明日になれば——明後日になれば、一週間経てども——もっと時を重ねたらまた話せるだろう。けれどももしこのまま帰ってしまえば明日はこないかもしれない。少しでいい、少しでもいいからその時間を守りたかった。
そのためには悔しいけれど仁見の言う通り、この男を殺さなければならない。仁見が渡してきたこの毒薬を使って目の前の男を葬らなければならない。
男が資料に目を通している間に、「何か飲み物でも飲みませんか」と聞いた。ありがたいことに男は資料から目を離さず、「アイスコーヒーを頼む」と言ってきた。
彼は静かに「わかりました」と答えて、席を立った。カウンターに向かって、アイスコーヒーとホットコーヒーを頼んだ。慣れた手つきで注がれたアイスコーヒーを受け取ると、スーツパンツのポケットに入れていた小さな袋を取り出し、カウンターの下でぐっと握った。
これを入れればいい。そして飲ませれば全て済む。
ちらりと少しばかり離れた席で資料に夢中になっている男を見る。こちらには全く見向きもしない。今なら出来る。
彼は店員がホットコーヒーを淹れる為に後ろを向いている間にその粉薬をアイスコーヒーに溶かした。
さらさらとアイスコーヒーに溶けていった粉薬はもう目には映らない。そこにあるのはただのアイスコーヒーだ。けれども確実に、飲む者を殺すであろう毒入りだ。
引き下がれない。彼の心臓がバクバクと脈打った。痛いくらいだ。跳ねて胸が裂けそうだった。息が上がりそうになるのをこらえる。こらえてアイスコーヒーに刺さっているストローをくるくると回してかきまぜた。
ホットコーヒーを差し出され、笑顔の店員に見られながら会計を済ませて、それらを持って席に戻る。冷や汗が出てきた。ばれないか、不安だ。
大丈夫だろうか。見た目はただのアイスコーヒーでしかないが、もしかしたら匂いがするのではないか?
味はどうだ? 変な味がしたりしないだろうか?
とにかく気付かれないか。脈が上がる。どくどくと血液が猛スピードで体中を駆け巡る感覚があった。
なるべく平静を装って席につく。どうぞ、と差し出したアイスコーヒーを見ないように自分の手元のホットコーヒーに目を落とした。
落ち着かせるように口に運ぶ。湯気が上がるほどの熱さを持つホットコーヒーの熱さも味も良く分からなかった。
わるいな、と言って目の前の男がアイスコーヒーを口にした。あっと彼から声が漏れた。男が彼を見る。
「あ、ああ、熱いなあと思いまして」
「だろうな、湯気がガンガン立ってる」
どうにか誤魔化して、彼は苦笑いを浮かべた。目の前の男は彼を一瞥したが、すぐに資料を眺め直し、アイスコーヒーを喉を鳴らして飲んだ。
乾いた喉を潤すように飲み進める目の前の男を見て、毒が効くまでどれほどの時間がかかるのだろうと彼は疑問に思った。即効性があるわけではなさそうだ。目の前の男は苦しむ様子もない。彼を不安が襲った。
もし、アイスコーヒーに溶かした毒が効かなかったら?
けれどもそう思っているうちに急に毒が効いてしまったら?
店内で突然男が倒れてしまったら?
絶望にも似た感情が押し寄せてきた。あまりにも考えが足らなかった。いいなりの操り人形のようにここまで来てしまった自分を心の中で罵った。
資料を読み終えた男はテーブルで資料を叩いて整えると、残っていたアイスコーヒーを飲み干して、小銭を取り出した。
「いくらだった? あんたの分も合わせてだ」
「ああいえ、お代は大丈夫です」
「そうか、悪いな」
「いえ……」
男が懐から小包を取り出して、テーブルの下から彼に差し出した。
「情報料だ。百ある」
「ひゃ、ひゃく百?」
「ああ、これであいつをどん底に落としてやれる。ありがとな」
そう言い残して男は立ち上がった。立ち去ろうとする男に彼は「まだ話すことが」と引き留めて、「此処では少し」と言って場所を移動させる。
彼について男は歩いた。渋谷のNHKホールの近くの喫茶店から少し歩いて、代々木公園にやってきた。その間、会話は何もなく、男が何を尋ねることもなく、まっすぐにやってきた。
彼は気が気じゃなかった。いつ毒が効くのか定かでないので、緊張の糸が延々と張り続けていた。
夜も深まった代々木公園には目の届く範囲に人の姿はなかった。今日は空は曇っていて、星があまり見えない。
彼は噴水広場の前で立ち止まり、後ろの男に振り返った。その顔はあまりにも平静とは言えなかった。
「すみませんでした」
彼は頭を下げた。今までのように、深く、頭を下げた。
男は怪訝そうな顔をした。
「本当に、すみませんでした」
彼の目から涙が自然とこぼれた。大の大人が泣き始めている。それを訝しんでいた男は、彼の目の前で息を上げ始めた。嘔吐するかのように体を前後させた。
それからはあっという間だった。息苦しそうに喉を掻き始めた男は、徐々に体中から水分が蒸発していき、全身の皮膚が骨に張り付くように線が細くなっていく。
「水……水……」
どうにか吐き出した声でそういうと、男はたどたどしい足取りで目の前の噴水に近づいていき、顔を水に突っ込んだ。
ごぼごぼと音を立てて水を飲むようだったが、そのまま男は動かなくなった。そしてずるりと噴水の中に体が滑って行った。
彼はその姿を唖然と見ていた。どれほど見ていたのか分からない。目の前で男が噴水に入って動かなくなってからもずっとその方向を見ていた。その目には男の姿は映っていなかったかもしれない。
非現実的な事象を認識できずに、何かを見ているが、その何かが理解できずに見逃しているような——夢でも見ているような感覚だった。
風が吹いて辺りの木々がかさかさと鳴った。その音も聞こえなかった。開いた口はふさがらずにいたが、時が経つにつれて少しずつ、意識がはっきりとしていった。
まだやらなければならないことがある。男がジーンズの尻ポケットに乱暴に突っ込んだ資料を奪って、ポケットの中にあった携帯電話も回収した。
その間、彼はずっと泣いていた。
その間、彼はずっと謝っていた。
まるで経のようにぼそぼそと謝り続けていた。
自戒の念に駆られて今すぐにでも死にたかったが、娘の顔が思い出されてそれはダメだと頭を振った。妻の笑顔が思い出されて、まだだと頭を振った。
そして彼は、仁見に電話を掛けた。少し経って出た仁見の息が上がっていた。
「どうしました?」
「……やりました」
「そうですか……上手く行きましたか?」
「はい。問題ありません……資料も携帯も回収しました」
「そうですか、よかった。それは明日、俺にください。俺が責任を持って処理します」
「よろしくお願いします」
仁見が電話の向こうで「これで家族のことが守れましたね」と言ったが、彼には聞こえていなかった。携帯電話を持つ腕を力なくだらりと垂らして、意識がふわふわと浮いたまま彼は歩いた。ここにいたくなかった。
ずりずりと靴底をすり減らしながら代々木公園を後にした。
しばらく歩いてたどり着いたのは、清掃のバイトの更衣室だった。なぜここに着いたのかわからなかったが、更衣室に入って、部屋の真ん中にある簡易的なベンチに腰を下ろした。ぼーっと、空を眺める。
ドアをノックされた。それにも彼は気付かなかった。
「入るよー」と声を掛けられた。少し間があって、ドアが開いた。ドアから顔を出したのは間島だった。
「どしたの?」間島が心配そうに聞く。しかし彼は答えなかった。声が聞こえていなかった。
「ちょっと、おっさん?」
間島が更衣室に入ってきた。彼の前に立ち、彼に声をかけるが、まるで気付いていないように彼は空を見続けた。
「ちょっとってば!」間島が彼を揺すった。
少し強めに揺すられて、ようやく彼は意識を取り戻したようにはっとした。
そして、間島を見つけた。
「大丈夫?」
間島の顔を見て、彼の胸の内にごわごわと身を切り刻むような思いが込み上げてきた。気づけば彼はまた泣いていた。ぼろぼろと涙をこぼし、顔は汚くて仕方ない。突然目の前で泣かれたものだから間島は困惑した。
「どどどどどうしたのよ? 何? なんかあったの?」
間島の問いかけにもこたえられず、彼はただただ泣いた。間島は困ったなあと頭をかいて、鞄からハンカチを取り出して彼に差し出した。
「とりあえず涙拭いてよ」
間島はそう言って、彼の隣に座った。彼が泣き止むまで隣にいて、何を言うでもなく、寄り添った。
しばらくして、落ち着いた彼が、涙と鼻水で汚くなってしまった女の子らしいハンカチを握りしめて、「すみませんでした」と謝った。
「別にいいよ、洗って返して」
彼は震えながら頷いた。
「で、何があったわけ?
「す、すみません」
彼がそれから今日の出来事を思わず口走りそうになったが、そんな弱い自分を押し殺して、「ちょっと疲れちゃって」と誤魔化した。
間島がそんな彼の姿を見て、「飲み行く?」と提案した。だが、彼はゆっくり首を横に振って、「今日はちょっと……」とうつむいた。
そう、と間島は言って立ち上がった。
「
間島のその思いやりが彼にはとても暖かく思えて、「ありがとうございます」と気付けば口に出ていた。間島が、「へえ、すみませんじゃないんだ」とつぶやいた。
「あ、すみません」
「ううん、違うの。あんたがありがとうって言うって思わなかったから」
あ、と彼は驚いた顔をした。
「
「え?」
「
別に言われたくて味方するわけじゃないけどね。と間島が笑った。
「明日、仕事大変みたいだから、遅れないでね」
間島はそう言って更衣室を出ていった。彼は間島に頭を下げて、出ていく彼女を見ていた。ドアが閉まって、更衣室が静かになった。握りしめたハンカチを見やる。彼女にも迷惑をかけてしまうのは申し訳ないと思う。
自分の中に生まれたこのどす黒い罪悪感を押し殺すようにして、彼はまた泣いた。静かに、誰にも聞こえないように泣いた。ひとしきり泣いて、彼は立ち上がった。
家に帰ろう。自分が守った家に帰ろう。洗濯をして、ハンカチを返そう。
どこか、心のどこかが壊れていく音がして、彼はそれを聞かないように耳をふさいで更衣室を後にした。
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