第35話「謝罪の美学」(14)
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慶早大学のキャンパス内にある研究室に元解体屋がいる。薬屋の祖父にあたる男であるが、元々は屋号会にいた。けれども老いには勝てず(殺しに疲れたということもあるだろうが)、殺し屋からは足を洗って今では隠居してとち狂った研究をしている——いわゆるマッドサイエンティストというやつだ。
なんでも最近は人食いアメーバを研究しているとか。薬屋がそんな爺なら変死体について何かわかるかもしれないと話を通してくれて、あの中年太りの隣人にあったあと、回収した遺体らを爺のもとに回して、その結果を知るべく足を運んだのであった。
カーテンを閉め切って薄暗くなった研究室のドアを開けると、異臭が鼻をついた。痛いやつだ。
思わず顔をしかめる。的屋は「臭え」と声に出ていた。同感だ。
爺の甲高い笑い声が聞こえてきた。痛いやつだ。
「じいさん」
声をかけるがさっぱり聞いちゃいない。まるで耳がないように全く反応を示さず、こちらに背を向けて首を傾げ続けていた。
我々が近くに寄って、爺が顕微鏡を覗いていることがわかった。
「耳も遠くなっちまったか」
的屋が煙草を咥えながら吐き捨てる。
「遠くなっとらんわい。それにここは禁煙じゃ。研究の邪魔すんな」
こちらを見ずに爺は顕微鏡を覗いては手元の紙に何か記入している。プレパラートに何が乗せられているのかまでは確認できなかったが、おおよそ危険なものに相違はない。大方、今研究しているという人食いアメーバだろうが。
諫められた的屋は咥えかけた煙草をそのままくるりと指先で回して、スーツの胸ポケットに差し込んだ。見事な手際だが、確実にそのポケットには煙草の葉が散乱するだろう。きっと掃除が大変だ。
私は爺に向き直り、声をかけた。
「それで、何かわかったのか?」
「あ? 何の話だ?」
「おいおい、呆けたんじゃないだろうな?」
「まだ呆けとらんわい。で、何の話だ」
「だから、こないだの遺体について何かわかったかって話」
一切こちらを見向きもしなかった爺だったが、遺体の話とわかると、ああ、と言って椅子を回転させてこちらを向いた。
「わかったとも。あれはそもそも毒じゃない。アメーバだ」
「アメーバ?」
「そうとも、アメーバだ。人食いアメーバ。儂のやりたいことを先にやられとったわい。はあ、やる気なくすのう」
肩を竦めて爺はやってられんと首を振った。
あの在原の遺体にあったのは毒ではなくアメーバで——さらに言えば、人体の中でも白血球に擬態するという規格外の特性をもつもので——しっかりと検査しなければわからないような新種のものだったらしい。
「よくわかったな」
さすが爺だと言うと、爺は手をふらふらと顔の前で振って苦い顔をした。
「鑑識の馬鹿どもと一緒にするんじゃないわい。あれくらいもわからんとなると日本の警察もダメじゃな。どうしようもない」
やれやれ、と爺は首を振った。
「しかしのう、結局のところ、そこまでしか分からんかった。何があの遺体を作り出したのか——それはまずこの『人食いアメーバ』で違いないだろうが、じゃあどうしてそのアメーバがそんな運動を引き起こしたのかは定かでない。水分を吸収するのはわかったが、ならなぜコーヒーは問題なかった? なぜ人体に侵入したのちに時間を置いて暴れた? それが分るか?」
爺は腕組みをして、それからまた眼前に鎮座する顕微鏡に顔を近づけていった。
さすがの爺もお手上げか、と落胆した。仕方ないが、相手はよほど研究室に充満している濁った空気がたまらず、的屋が換気をしようとカーテンを開ける。しゃらららと音がして、カーテンが窓際でまとまったところで、爺が叫んだ。
「儂には分かる!!」
的屋が驚いて(私もそうだが)、爺を見やる。
そしてはっとした。忘れていた。的屋とお互いに顔を見やり、即座に踵を返した。しかし私たちが脱兎のごとくであるならば、爺の反応はその脱兎を食らう虎のごとく。その老いぼれた体躯のどこにそんな跳躍力が隠されていたのかと疑う脚力で跳躍し、脱出口である扉の鍵を閉めやがった。
「おい坊主ども、腕を差し出せ」
にたりと爺がこちらを見る。人を殺さんばかりの狂った笑顔だ。ぎいと上げられた口角の先に見える犬歯は人ならざる者ほど鋭い。
そしてこちらを捕らえて離さないこの目は狂気を孕んだ目だ。マッドサイエンティストという呼び名がまさに合う幸せそうな顔をしている。
後ずさりをしながらこの先、どう逃げ出すのかを考える。
爺はそんな考えなど思考したところで無駄とでも言わんばかりに自慢げに話し出した。
「儂は天才であるがゆえに、あの変死体を見、そして血液サンプルを採取し、検査を始めた時、一つの仮説を立てた。しかしそれは今の今まで仮説でしかなかった。なぜならば、この時を待って実験をしなかったからだ。空気中の元素によって反応を示すかと酸素やら二酸化炭素やらを突っ込んでみたがそれが反応しないことなどとうに知っていた。なぜならば儂は絶対的な自信を持ってその仮説を立てたからだ。そしておそらくそれは、確実にここに成立するに違いない。そのために必要なのは、『血』じゃ」
胸元からさも煙草を一本取り出すかのような軽やかさで注射器を取り出して、針先をこちらに向ける。
的屋が短く悲鳴を上げた。そちらを見ると顔を背けて思い切り目をつぶっている。ああ、そういえばこいつは先端恐怖症だったっけか。それは酷なことをされているな。
「さて、坊主ども、血を取らせてもらうぞ」
地獄から這い出てきたようなおどろしい声が聞こえたかと思うと、それからの爺は早かった。おそらく世界中の医者も顔負けの慣れた手つきで、圧倒的な速度でシャツとスーツを捲し上げて上腕二頭筋を左手で圧迫し、浮き出てもいないうちに寸分違わず注射をし、血液を採取された。
もう一本懐から注射器を取り出して、今度は的屋にそうする。
圧巻だった。早すぎて、的屋が痛がるタイミングを逃すほどだった。
とっくに抜かれた注射器を見て、的屋が「いてえ」と叫んだ。叫んだのちにもうすでに自分の血が抜かれていることに気が付いて、目を丸くした。傑作だった。込み上げてくる笑いをこらえて鼻が鳴った。
恥ずかしそうに的屋は中折れ帽の鍔で顔を隠した。気持ちはわかる。私も以前そうなった。
しかし、忘れていた。この偏屈爺は変態であって、まさに狂気の研究者であって、何か自分の中で確信を持った仮説があると絶対に誰かを実験に使いたがる。そもそもあの遺体をこの爺に回した時点でそれに気付くべきだった。最近は孫の心配をする好々爺らしい姿ばかり見ていたものだから思い出せるものも思い出せなかった。
にしても血を抜かれるだけならよかった。腕を差し出せと言われたときは肝が冷えた。悦に入ったように満足しながら爺は話し出す。
「仮説なのだからあくまでおそらくの話になるが、儂はあの変死体を見、血液サンプルを採取し、ちいと調べたところで、このアメーバは血液中の何かを取り込むのだろうと思ったのじゃ。なぜそう思ったかは天才ゆえの勘というやつであるが——とにかくそう思った儂は、その確認は最後に取っておこうと決意した。というのも儂は好物は最後に食べるタイプだからじゃ——例えば筑前煮なら里芋は最後に食べるようにな」
抜かれた血液を試験管に移し替えた。赤いその血を見て気分が悪くなる。私と放心状態の的屋に反して爺はやたらと気分がよさそうだ。まったくもってこの爺は人が悪い。試験管にふたをすると、くるりくるりとその血液を回して、容器に立てた。
「そして儂はもう少し考えた。あの変死体を作り出したこの人食いアメーバは一体全体どうやってあの体内に混入したのだろうと。調べてみればどこにも傷跡はなかった。つまり人食いアメーバの混入した方法は傷跡からの細菌感染ではないし、注射などによって血液に直接投与された可能性はない。ではどう体内に入り込んだのか——飛沫感染であるならばあの遺体のほかに似たような状況の遺体が数体いなければならない。けれども他の遺体に関して言えばまた違った状態だった。
一人はこれでもかと絞殺された姿。
一人はやたらめったに焼殺された姿。
一人は完膚無きまでに撲殺された姿。
どうじゃよ。これは”屋号会”に対する宣戦布告のように思えないかね?——まあいい。今はそれは置いておいて、とにかく飛沫感染ならばいるはずのものがいなかった。ということはだ」
「飛沫感染の可能性はない。さらに人食いアメーバの侵入経路が限られてくる。在原の生前の行動を調査した結果、とある喫茶店で何者かとコーヒーを飲んでいる姿が目撃されている。それ以降の在原の目撃証言が挙げられていないので現段階ではその時点で人食いアメーバを盛られたと考えるのが妥当か」
「そのとおり。アメーバは水分を少量吸収するとぞっとするほど活発的になった。しかしな、活発的になったと言えど、水分を吸収したと言えど、それは殺人級のものではない。そこでカフェインを投与したんじゃが、それを食らうようなことはなかった。ここで儂の予測がさらに現実味を帯びてきた。そして今!」
爺が試験管にスポイトを差し込み、少量の血液を吸いだした。そんなに使わねえなら並々と抜くんじゃねえよ。
「その結果が分る——!!」
アメーバが蠢いているらしいプレパラートにぽとりと血液を注がれると、顕微鏡を見ていた爺が発狂した。狂ってやがる。
「やぁぁぁぁはぁぁぁぁり! 儂の想像通りじゃわ! 見て見ろ!」
促されるままに顕微鏡を覗いて、絶望した。
うじゃうじゃと気持ちの悪い何かが何かを貪るように蠢いている。目を反らして胃から逆流してきたものをどうにか喉からさらに引き戻させた。口の中に胃酸の酸っぱい味が広がって気持ちの悪さが残った。
「儂の想像した結果。それは人食いアメーバが喰らうのは白血球なのではなかろうか、ということじゃった。調べてみれば確かに常人よりも白血球の数値が低かった。数値など人によりけりではあるが、にしては異常なまでに数値が低い。警察の方から流されたデータでは正常値を示していたが、恐らくそれはこのアメーバを白血球として数えたからじゃ。まったく、儂が死んだら日本は終わるな」
生きていたって日本は終わりそうだぞ、と釘を刺そうとしたが、こうなった爺には何を言ったって聞きやしないのでただ相槌を打つだけにした。
「儂が予想していた通りの反応じゃった。ぐははははは。見て見ろ、うようよと喜んどるわい。ぐひひひひひ。白血球を食らって白血球に成り切るなんぞ、とんだ化け物じゃな。いやあ、敵ながらあっぱれじゃ。儂も負けてられんな。というわけであとはお前らがなんとかせえ。ほれ、帰れ帰れ!」
爺がそう言って私たちの背中を押して扉まで連れて行った。ようやく落ち着いた的屋が「俺は血を抜かれる意味があったのか?」と爺に尋ねたが、爺はまったく答えずにそのまま研究室から追い出した。
私も同じように背中を思い切り押されて廊下に出た。
「しかしのう、葬儀屋。うちの孫は人食いアメーバなんぞで人は殺さんぞ」
爺がそう言い残して扉を閉めた。どういうことかと聞きたかったが、それを許さんと言う代わりに鍵を閉められた。こうなっては薫子さんに頼る他ない。
しかし薫子さんの手を煩わせるわけにもいくまい。
的屋を引き連れて外に出ると、的屋の愛車の前で薬屋が待ち構えていた。
「何かわかりましたか?」
「わかったとも。万事屋が絡んでいるので間違いない」
「じゃあ万事屋を始末するんですね?」
「その前に確認しなければならないことがある」
どうしても、確認しなければならないことが。
的屋は察したようで無言で車に飛び乗った。
きょとんとした薬屋を引き連れて私はそれに続いた。
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