第36話「謝罪の美学」(15)
彼は気付いていた。自分はひたむきに見て見ぬふりをしているだけだということに、痛いほど気付いていた。
もう妻の心は自分の元にはない。妻の口から出てくる言葉は全て嘘でしかない。本当に妻が愛している男はきっと——
それ以上のことを考えるのはやめて、彼は仁見の言うことを聞き続けた。少しずつ横領をしては現金を手渡しで仁見に渡した。そうすることで原始的であるが、金の流れをデータ化させないようにしたのであった。
そのうちの半分は幾度も彼の手元に残ったが、それは全て妻と娘に消えていった。三分の一しか娘のもとに残らないことが気がかりだったが、しかしそれでも愛する妻のために使われているのだと無理に自身を納得させた。納得させて、どうにかこらえて、二人のために何度となく心を殺した。
今日、ふらふらと家に帰ると、珍しく妻が起きていた。日付は翌日になっているので、この時間に起きているのはあり得ない。普段の妻ならば肌に響くと言ってもう布団に入っているはずだ。
「た、ただいま」
驚いた彼がどぎまぎしながら声をかけるが、妻は何も話さずうつむいている。
「め、珍しいね、君がこんな時間に起きているなんて。な、ななにかあった?」
妻の座る席と対に腰かけて、うつむいた顔を見つめる。本当に四十を過ぎたとは思えないほどの美貌で、ぞっとした。妻の唇が動いた。
聞き取れなかったので彼は何か、と聞きなおした。
「……
彼は呆然として宙を見たのち、瞼を何度か瞬かせ、「警察に連絡しなきゃ」と携帯電話を取り出した。それを妻が取り乱した様子で止める。彼の腕に爪を立てて「やめて」と叫んだ。痛みなど気にせず、彼は腕を振りほどいて妻を見据えた。随分と久しぶりに顔をしっかりと合わせた気がする。
「どうして!?」彼は妻以上に叫んだ。
「犯人が警察に言ったら命はないって……!!」
妻が彼にもたれるように泣き崩れた。わなわなと彼は頭を抱えて妻にもたれるように膝が折れた。
「じゃあ、じゃあどうすればいい」
「犯人は電話で身代金を要求してきたわ。一千万円だって。そんなの無理よ。できっこない」
子供になってしまったように妻が涙を流して頭を横に振るい続ける。
突然すぎる。どうして娘が誘拐されなければならないのだ。妻を抱きしめて自身は現実離れした出来事に反射的に首を横に振った。
その時、電子音が部屋に鳴り響いた。部屋の隅にある電話機がコール音を繰り返す。番号が表示されるはずのディスプレイには『ヒツウチ』とだけ表示されていた。彼は恐る恐る受話器を取り、静かに耳に当てた。
「もし、もし」
一瞬で喉が乾燥した。急激に乾いて口の中が血の味であふれる。
受話器の向こうから、電子音に加工された声がした。くぐもった高い声がする。
『娘を返してほしければ一千万円を用意しろ。このことを警察に言おうものなら娘の命はない。一千万円だ。娘の命のために一千万円。安いもんだろう』
「娘は無事なんですか!?」
『ああ、無事だとも。今はな』
「こ、声だけでも聴かせてもらえないでしょうか」
『それはあんたが一人で金を持ってきたそのときに聞かせてやる』
受話器を耳にあて、彼はぱくぱくと口を動かした。
『明日の昼十五時までに東京湾の大黒埠頭で待っている。時間に遅れたら……わかるな?』
そこで電話は切れた。彼は愕然として、通話が終了したと知らせる受話器を力なく床に落とした。どうしたらいいのだ。
自分の人生において、ここ一年はまるでジェットコースターのようだ。
いいことも悪いことも、自分にはどうしようもない勢いを持ってやってくる。
彼はすぐに身支度を整えて、玄関に向かった。その背を追いかけて妻がやってくる。
「どこに行くの」
「会社だよ。どうにか掛け合ってみる」
「でも誰かに知られたら——」
「大丈夫、知られずにどうにかする。君は安心して、ここで礼の無事を祈っていてほしい」
彼は妻の不安をかき消すようにそう言い残し、家を後にした。
深夜を迎えたオフィスに社員は残っているだろうか。考えながら走る。巨体は以前よりは痩せたので、少し動きやすい気がした。
切れ切れな息を忘れるほど、職場へ急いだ。とにかく娘を助けたい一心で、彼は走り続けた。一時間ほど走り切ると、ようやくオフィスのあるビルにたどり着いた。
汗だくで現れた彼を見た警備員がぎょっとして怪訝そうに見てきたが、「大事な書類を忘れてしまって」と彼が言って、その顔が汗だくなだけでなく泣いているのだとわかると、すぐにドアを開けてくれた。
警備員に礼を言って彼はエレベーターに一目散に向かった。カタカタと上へ向かうボタンを押し続けた。すぐに電子レンジにも似た甲高い音がしてドアが開く。開くと同時に体をぶつけながら中へ入り、七階のボタンを押した。
無重力に近い浮遊感を味わいながら彼はエレベーターとともに七階へ向かう。彼は上を見上げて上がっていく数字を見ていた。
四、五、六……と電子版は変わりゆき、ついに、七階に到着した。
ドアが開いてオフィスに向かうと薄暗いが明かりはついていた。誰かが残業をしているらしい。細心の注意を払って周りを眺めたが、どうやら今その社員は席を外しているらしい。これ幸いと、自身のデスクに向かってパソコンの電源に指をあてたところで、ふとその手を止めた。そっと顔を上げて仁見のデスクを見る。
普段の高慢ちきな後輩へのせめてもの反抗だ。彼は仁見のデスクに向かい、パソコンの電源を入れた。立ち上がったパソコンで慣れた様子でキーボードを叩き、資金データを改ざんしていく。それから形跡を残さぬようにして電源を切った。
あとは金庫へ足を運んで何食わぬ顔で一千万円を回収してくればいい。
彼はそこで鞄のひとつも持ってきていないことに気付いた。
まずい。どうする。冷や汗が出てきた。
焦りながらオフィスを探し回ると、仁見のデスクの下にアタッシュケースを見つけた。仁見のデスクの上に広げて中を確認すると中身は空だった。運がいい。まるで予定調和のようであるが、助かった。
彼は急いで金庫に向かい、指紋認証をクリアして金庫の中へ入って行く。そこにある一万円の札束をひっつかんでアタッシュケースに詰めていった。五百万円ほど入れたところでアタッシュケースはいっぱいになってしまった。やむをえまいと彼はアタッシュケースの鍵を閉めた。
はたと思いついた。貯金から五百万円ほど引いても少しは残るはずだ。残りはそこから引き出せばどうにかなるだろう。彼は崩れた札束の山を均して金庫を後にした。金庫の鍵を閉めて歩き出すと、出口に伸びた廊下の中程に見慣れた姿があった。
「……おっさん?」
清掃の制服を身に纏った間島が目を細めて彼を見た。
清掃の荷物を入れたかごを押し止めて、その場に立ち止まっていた。間島がもう一度「おっさん?」と彼の顔を見ようと顔を動かした。
彼女の声を聞いて彼は冷や水を浴びたように心臓が跳ねた。きつく握っていたアタッシュケースの取っ手がするりと糸のようにほどけて落ちた。バゴッと重たい音がして、その音で彼はまた思い返した。ここで立ち止まるわけにはいかない。
落ちたアタッシュケースを乱暴に抱いて、彼は走り出した。間島の呼びかけに答えず走って、彼女の横を通り過ぎるときに「すみません」とだけ言ってエントランスを走り抜けた。
間島が彼を呼ぶ。しかし彼はそれに頑なにこたえなかった。何度か呼んだ間島の声が彼の走り去った廊下に寂しく響く。
彼は走って、走って、足がもつれて、それでも走って、街灯が照らすアスファルトを蹴って、星空が霞む夜空を見上げて息を吸い込んで、また走って、どうにか家にたどり着いて、ドアを開けて玄関に入るとその場に倒れ込んだ。がはがはと咽ながら起き上がる。四つん這いになって、何かを吐き出すように咳き込んだ。
深呼吸をして落ち着いた彼は靴を適当に脱ぎ捨てて、リビングへ上がって行った。リビングのドアノブに手をかけてひねったところで、また彼は止まった。
おかしい。なぜ妻は出てこなかった? 烏滸がましいし、自分が大切にされているとも思わないけれど、大切な一人娘の命を左右する行動だ。勢いよくドアが開いた音で気付いて出てきてもおかしくはないだろうに。
ドアを開けてリビングに入る。妻の姿が目に入った。彼はほっとしたが、さらに体をリビングに入れて、彼の視界に娘の姿が入った。妻の隣の椅子に座ってニコニコとしている。
「おかえりぃ」
にふふ、とその人物は笑った。
「礼、なのか……?」
涙が込み上げてきた。無事でよかった、と喜んだのもつかの間。
「ざーんねん、ボクは礼ちゃんじゃないよー」
ころころと喉を鳴らすように笑った娘の恰好の何者かは自身の顔の皮を剥いで美少女と見紛うばかりの幼い顔を見せた。彼の涙は引っ込んでいく。
「ボクは万事屋っていう殺し屋さんなんだけれど、ちょっとあいつにサプライズしたいから手伝ってよ」
と聞こえて、彼も妻も意識を失った。あまりの早業だった。あっという間にするりと背後に回って、いっという間に手刀を後頭部に入れていた。
「あれれ、死んでないよね? 生きてるよね?」
万事屋が二人の胸元に耳を近づけて鼓動を聞く。
「よしよし生きてる生きてる。殺すならあとにしないとつまらないもんねえ。よいしょっと」
万事屋が彼らを抱き上げて玄関へ向かう。玄関のドアを蹴り抜いて突き破った。ベゴォッと小さな足跡が飛んでいったドアについていた。
あまりの騒音に出てきた隣の部屋の主と万事屋の目が合った。
「死にたい?」
万事屋がそう尋ねる。ぞっとしてその隣人はドアを閉めた。
「あとで殺しに来ようっと」
にこにこと微笑んで万事屋が跳躍した。ここは五階であるが——両手に人間を抱えているが——一切問題はなさそうだった。万事屋は彼らを連れてひょいひょいと跳んでいく。
向かう場所は——大黒埠頭。そこでひとつ、遊んでみようと思っていた。
————◇◇◇————
調べてみれば住所はわかったので(そもそも同じマンションであることは知っていたので)、私は的屋と薬屋とともに我がマンションにやってきていた。我が家と同じ階にあるその一室にはドアがなかった。ショベルカーやその類の人力を超えた何かで引きはがされたような状況に背筋が凍る。こんなことを出来る一般人はそうそういない。
おそらく、彼らの周りに我々の側の人間がいるかもしれないと考えられた。にしても、突き破られたドアを見て愕然とした。この状況に不釣り合いな小さな靴跡がついている。確実にこのドアを突き破り、この家の家族を襲った犯人のものだろう。そしてきっとこの靴跡の主はあの万事屋に違いない。
しかし参った。これでは確認したいことの確認がしようがない。私が確認したかったのは万事屋のことじゃない。
そして下手をすると彼の命が危ない。
「これより仕事を始めよう」
二人は静かに頷いた。
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