第37話「謝罪の美学」(16)

 あてもなく走り回るのは避けたかったので情報屋に連絡を入れた。すぐに電話に出た彼はどうやら寝起きのようで声ががらがらと乾いていた。


『なんすか』

「都内の監視カメラに妙なものは映ってないか」

『逢瀬の情事からババアの井戸端会議までなんでも映ってますよ。何を妙としますか?』


 大きなあくびが聞こえてくる。緊張感の皆無なやつだ。少し腹が立つが気にしてられない。


「人を抱えるなりして飛んで回ってるようなやつはいないか」

『そいつは妙ですねえ。常人はそんな状態で飛び回らない。万事屋っすか?』


 そうだ、と答えると、情報屋はまた一度大きなあくびをしてカタカタとキーボードを叩き始めた。そもそも常人はどんな状態でだって飛び回らない。


『なら映ってるや。あいつはなんつーか、人じゃねえんすよねえ』


 あくびを噛み殺して情報屋は見つけた、と言った。


『東京湾、大黒埠頭。そこにいるみたいっすねえ。人を抱えて飛んでる馬鹿を付け回しただけなんで、もしそいつが万事屋じゃあなかったとしてもお代はいただきますし、恨み辛みはなしっすよ』礼を言う。

『いえいえ、今後もぜひともごひいきに』


 情報屋がさくりと電話を切った。大黒埠頭に向かうよう的屋へ言う。薬屋は後部座席でうとうととしていた。腕時計を見ればもう午前二時だ。そりゃ眠くもなるだろう。


————◇◇◇————


 意識が目覚めると「話が違うだろう!!」と聞きなれた声が反響して聞こえてきた。いつもいつも聞いている声だ。いつも自分を詰ってくるような声。目を開けて視界が真っ黒に遮られていることに気付いた。

 声が反響しているからきっと広いところに自分は寝かされているんだろう。

 すぐ隣からガタガタと震えが伝わってきた。誰だろうか。妻だろうか。後ろに拘束された両手でどうにか震える手を握った。しかしその手を捨てるように離されてしまう。どっと悲しさが押し寄せてきた。妻がそんなことをするようになってしまったのだろうか。

 視界が遮られているから涙は誰にも見られないだろう。少し距離が置かれたのか震えも伝わってこない。視界がまったくなくなったので、急激に孤独感が押し寄せてきた。心もとない、心寂しい。


「約束が違うぞ!」とまたそいつは叫んだ。何かに一生懸命らしい。悲痛にも思える叫びだ。慟哭に近いような、心の衝動をそのままにたたきつけるような。それを何とも思わず、「だーかーらー」とあきれたように若い声が言う。


「ボクからしたらその女だってキミだってただのゴミなんだってば。キミがいくら大切な人だって言ったとしても、ボクの心にはまったくもって響かない。なぜならボクは犯罪者を総じてゴミだと思っているし、そもそも普通ゴミはしゃべらないんだから。そんなのと話してんだから感謝してほしいくらいだよ。はーあ、にふふ。にしても傑作だよね? 自分で犯罪者を作ればいくらでも世界平和を守れるんだもの」


 かちゃり、と金属音がした。


「でもさ、ほら、ただただ殺すだけじゃ飽きちゃうじゃない。だからボクは擬態したりいろんなことをしてきたんだけど、それでも飽きてきちゃったんだよね。そこで思いついたのが、犯罪者を作り出して、その犯罪者の大切な人も犯罪者にして、二人仲良く助け合って、どちらが先に死ぬのか競争させようってアイデアだったんだけれど、どう? 傑作だと思わない?」


 横暴だ。無謀で、絶望的な状況だ。彼は独りになったこの世界で、どうしようもなく、その言葉を聞いていた。声から察するに仁見らしき男がああだこうだと叫んでいたけれど、突然悲鳴を上げて地べたに崩れる音がしてからは泣き声しか聞こえない。

 自分はどうなるのだろう。そして何より妻は、娘はどうなるのだろう。


「うるさいんだよねえ、ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあと。キミさあ、簡単にお金がもらえて女も手に入ると思ってたの? そんなに不細工でそんなに頭が悪いのに、よく課長なんて出来たね。ああ、泣いているから不細工なのか。にふふ。そうなの?」おそらく隣にいるであろう妻に尋ねたのだろうか。


「しっかし災難だったねえ、変な男に捕まっちゃったからここで死んじゃうんだよ」

「話が違うじゃない!」


 妻は震える声をどうにか絞り出したようだった。何者かははあとため息をついて、妻のどこかに何かを突き刺したようだった。金切声を上げて、泣き叫ぶ。


「何をしたぁぁぁぁ!!!」


 彼は思わず叫んでいた。二度そう叫ぶと、かつかつと靴音がして、誰かに倒れた背中側に立たれた。

 彼は妻の名を呼び続けた。

 しゅるると紐がほどける音がして、耳元で「自分で見てみたら?」と優しくささやかれた。

 目隠しを外されて自由になった視界に光が刺激的に入ってくる。まぶしくて瞼を閉じたり開けたりしながらピントを調節していく。妻の名を呼ぶが、返事はない。目を凝らして、光に慣れてきたその瞳に映った姿は——自分が憎く思う仁見と寄りそうようにしてお互いに体を預け合う妻の姿だった。


「これでも守りたいんだとしたらアナタはだいぶ寝取られ願望があるド変態野郎だね」


 にふふと楽しそうにそいつは笑った。


「どう? 殺したい? やっちゃいたいと思う?」


 キラキラとした眼でそいつは私を見た。


「娘は——どこですか」


 おびえる仁見を見て、なんだかがっかりした。こんな人間に私は好き放題に扱われていたのかと思うと腹も立ってくる。

 私の人生をめちゃくちゃにして、妻まで取られて、私はなんとも情けない男だ。

 泣きたいが、泣いている余裕はない。娘はどこだ。


「娘はどこですか!!!!」


 胸倉をつかんで仁見を揺する。揺するたびに刺された場所が痛むらしいがそんなことに構ってられない。後ろのほうから妻がやめてと私の腕を掴んだ。図らずも体が止まった。命令を聞いたからじゃない。願望を受け取ったからじゃない。気味悪い触感に思えてしまったからだ。もう、好きだと思えない。目の前で端正な顔立ちをしているこの女性を愛おしいと思えない。もう、人とも思えない。何か、妙な、人の形をした——化物だ。

 その手を払って、仁見を立ち上がらせた。自分のどこにこんな力があったのか、自分でも驚きだ。それ以上に妻の顔が驚いていた。


「どこに娘がいるんだ!! 無事なのか!! 生きているんだろうな!!」


 仁見は力なく首を縦に振った。それから「あれは良い女になるぞ」と汚く笑った。胸倉をつかむ手に力が入る。右手が自然と振りかぶったようになったが、止めた。これ以上、犯罪者になってはならない。


「ねえねえ、殺したいと思わない? こいつらひどいやつらだよ?」


 そいつはなぜか私にそう問いかけた。


「私はもう殺しはしません。罪も償います。だからあなたに指図はされたくない」

「へえ、面白いねえ。殺しが楽しくないのかな」

「楽しくありません」

「じゃあ、娘さんが殺されたら?」


 全身がカッと燃えるように熱くなった。


「何をした」

「怖いなあ、でもその目がいいなあ。にふふ、何もしてないよー。きっと殺し屋になる才能はあるのにね。もったいない」


 くるりと回って、そいつは私から距離を取ると、


「そいつらは金と肉に溺れたゴミだ。そんなに金と肉が好きなら金と肉に溺れて死ねばいい」


 と言って、指を鳴らした。

 どこからともなく金色に光る岩が現れた。そしてそいつは仁見たちにこう尋ねた。


「どっちがどっちの肉に溺れたい?」


 その顔は異常なほどに恍惚そうで、子供のように楽しそうだった。


————◇◇◇————


 大黒埠頭に着くと、倉庫がいくつかあった。虱潰しにそれぞれに倉庫を探すことにした。二つ目の倉庫でようやく見つけた。


「どっちがどっちの肉に溺れたい?」


 子供のような声だった。


「てめえが、万事屋だな」


 そいつが向いていた方には二人、人がいた。

 女は太腿を刺されて涙で化粧がぐちゃぐちゃだった。

 その女が寄り添う男はびくびくとしている。肩口から血を流していた。

 そいつは遊び道具を取られた子供のようにこちらを睨んで、宙に浮いていた金色の岩をこちらにぶん投げてきた。

 さっと避けると、その岩はまっすぐ倉庫の入り口へ飛んでいき、顔を出した的屋と薬屋の鼻先をかすめた。

 それから睨んでいたその目で私をまじまじと睨んでから、急に顔を輝かせた。


「もしかしてもしかして! 葬儀屋さん!? わーもうちょー嬉しい!! えー、来るなら言ってよ、もっとおめかししてきたのに!!」


 そいつは頬を膨らませた。なんなんだこいつ。


「てめえにもいろいろ聞きたいことが山ほどあるが、まずはその隣のあんたにきかなきゃならねえことがある」


 万事屋の隣にあの中年男性がいた。


「あんたが在原尚一を殺害した犯人だな」


————◇◇◇————


「そうです」


 私は答えた。喫茶店で会ったあの男性を見て、驚いたが、なんとなくそんな気もしていた。

 そんなことよりも、もう、他人のように思って誤魔化してはならない。

 他人事ではない。私自身のことだ。

 私は全て知っていた。知ったうえで誤魔化していた。

 妻は浮気をしていたし、私が稼ぐ金は湯水のように使われて、きっと横領で手に入れた金だって妻から仁見に回っていたのだろう。

 娘だって反抗期なのか私に対して良い感情はもっていないだろうし、どうあがいても、仁見の方が見栄えはいい。金もある。私みたいな人間には、幸せなんてやってこない。

 だからあがくのをやめて、今手元の近くにある幸せのような何かを掴んで離さないようにしていた。

 けれども——そのために捨てたものがどれだけあったろう。

 捨てて、私はどうなったろう。幸せになれたろうか。

 今となってはもう分からない。もう分からないから、考えるのも億劫だ。

 けれども——どうしてだろう。

 なんだって、こんな時にすら、娘を心配してしまうのだろう。

 なんだって、過去を思い出して、幸せを探してしまうんだろう。

 悔しいけれど、涙があふれた。

 それほど、私は妻を愛していた。

 それほど、娘を愛していた。


————◇◇◇————


 私は胸元から拳銃を取り出した。コルトガバメント。ずしりと重たいその体にしっとりと手が添えられる。撃鉄を起こして、彼に銃口を向けた。


「だとしたら、あんたは人殺しの犯罪者だ。情報と相違ない。よって屋号会はお前を殺す。覚悟はいいか」


 彼は静かに頷いた。


「すまない」

「何がです」

「あんたを殺すことになってしまった」

「いいんです。あの」なんだ。と尋ねる。

「娘は、無事でしょうか」

「ああ、無事だぜ」的屋が答えた。その背に眠っている少女がいた。

「そうですか、そうですか……よかった……あの」

「私は、掃除屋さんの元に行けるでしょうか」


 息を飲んだ。


「行けないですよね、私は人殺しだ」

「そもそもあいつも天国にいるとは到底思えん」


 彼はうつむいた顔を上げた。


「あいつもあんたと同じ人殺しだ。あんたと同じように、人を殺すことに悩んで生きていた、優しい人だ。あんたならきっと、会える」

「だったら、いいなあ。また、会えたら、いいなあ。会えたらその時は、あなたに会ったと伝えておきます。あなたのことも聞いておきます。娘のことも話します。妻との思い出も、清掃のバイトで出会った仲間のことも、いろんなことを話します。楽しかったんだ、って。あなたに出会えて私は変われたって、道を踏み外してしまったけれど、少しだけれど、幸せを掴んだって。そう、話します。掃除屋さんは私の話を聞いてくれるでしょうか」

「聞いてくれるさ。あいつは聞き上手だ」

「そうですよね。あの、お願いなんですけど、娘のことをよろしくお願いします」


 彼の頬は濡れていた。


「妻も、あんなんですが、本当は、根はいい子なんです。きっと私と同じように、どこか踏み間違えてしまっただけなんです。だからどうか、よろしくおねがいします」


 私は静かに頷いた。最後に彼は、微笑んだ。


「ありがとうございます。私はもうこれ以上、化物になりたくない」


 そうとも。あんたは化け物になってはいけない。本来であれば普通のサラリーマンとして、普通の家庭で幸せになるべき人間だった。こちらにやってくるような人間じゃあなかった。

 引き金を引く。短いが強烈な銃声が倉庫に響いた。黒々とした銃口から飛び出した銃弾は彼の心臓をまっすぐに撃ち抜いた。彼の体が宙に舞う。撃ち抜かれた際の衝撃を体が分散させようとする。少し後ろに彼は倒れた。傷口から血が溢れてくる。


 血が、溢れて、とめどない。海のようになる。


————◇◇◇————


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